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杉田庄一物語 その61(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」  X攻撃作戦・Y攻撃作戦

<X攻撃作戦>
 四月七日、X攻撃作戦初日。二〇四空は、九小隊二十七機の零戦でルッセル島及びガダルカナル島に出撃した。指揮官は、宮野大尉。当日は、生還を期さない決死の覚悟を示すため全員落下傘バンドをつけず、新しいふんどしと真っ白なマフラーで離陸した。杉田は第三中隊第二小隊三番機であった。第三中隊一番機の小隊長は日高初男飛曹長、二番機は齋藤章飛長だった。

 スコールの降る中、基地員たちの「帽フレ」に見送られ六時に離陸。一足早く離陸した艦爆隊八十機は、ブインに着陸し燃料を補給して待機。戦闘機隊もラバウルからブカに移動し燃料補給、二五三空と合流後、指揮官からブリーフィングを受けて十時ごろブカを発進した。

 ガダルカナル島までは片道約五百浬(九百三十キロメートル)ある。途中でブインからの艦爆隊と合流、二百五十機の大編隊となる。高度五千メートルの艦爆隊とその上を飛ぶ戦闘機隊がそのまま約一時間半飛行し、チョイセル島あたりから戦闘区域と判断し、徐々に高度を下げていく。

 十二時三十分、ガダルカナル島手前のルッセル島上空から米軍の対空砲火が始まり、被弾して墜ちていく機も出てきた。十二時四十五分、エスペランス岬直前で編隊は大きく左に変針する。グラマンF4F及びロッキードP38数十機を発見するが敵飛行場上空の制圧、攻撃支援をすることが任務のため、かまわず高射砲の弾幕の中を進む。高度を下げていきツラギ、ルンガ地区に接近、先行する制空隊が空戦している中を艦爆隊は敵艦戦をめがけて攻撃を行った。あたりは火炎や黒煙につつまれた戦場となり、あちこちで空戦がみられた。やがて次第に雲が広がりはじめて、視界が悪くなり、艦爆の動きも見えづらくなる。

 そのまま中隊単位のばらばらな空戦がはじまり、二〇四空も約三十機の敵戦闘機を発見、うち十機と交戦し五機撃墜した。野田隼人飛曹長、白川俊久二飛曹、小林友一飛長が各一機、日高義巳上飛曹と今関元晴二飛曹が協同で二機撃墜と報告されている。初陣の村田真飛長が空戦で炎上、自爆した。

 戦果は、巡洋艦一隻撃沈、駆逐艦三隻撃沈、大型輸送艦十一隻、敵機撃墜四十一機と報告された。のちに記すが、このときも過大な戦果認識があった。この日の戦いは、「フロリダ島沖海戦」と名付けられた。

<Y攻撃作戦>
 四月十一日、「い号作戦」のY2攻撃作戦(ブナ方面オロ湾への攻撃)が母艦航空隊によって行われた。七十二機の零戦と艦爆二十一機による攻撃で掃海艇一隻撃沈、貨物船一隻大破という戦果であった。この戦果も過大であった。米陸軍のP38戦闘機やP40戦闘機約五十機が迎撃に上がってきたが、連日、日本陸軍機と交戦していて練度が高く、零戦二機、艦爆四機が撃墜された、敵機には損害は出なかった。

 この日、二〇四空は、「フィンシュ輸送駆逐隊上空哨戒」任務に三小隊九機が出動している。指揮官は、尾関行治上飛曹である。敵とは遭遇せずに全機帰還している。杉田は編成に入っていない。

 四月十二日、Y攻撃作戦が実施された。ラバウルから陸攻隊を援護してポートモレスビーへ攻撃をしかける作戦である。基地航空隊全体で零戦百三十機、一式陸攻四十四機が出撃する計画である。二〇四空からは、早朝六時四十五分に宮野大尉指揮下で零戦八小隊二十四機が出撃した。杉田は第二中隊第一小隊三番機として出撃している。小隊一番機は野田隼人飛曹長、二番機は杉原眞平一飛曹である。

 途中、神田佐治二飛曹の零戦がエンジンオイル漏れの故障を起こし、三番機の中澤飛長とともに引き返す。ようやくスタンレー山脈を越えたものの不調が直らず、とうとうエンジンの焼き付きのため不時着水した。すぐに中澤飛長がラエ飛行場に緊急着陸し救助を要請した。神田は七時間の漂流ののちに救助され、潜水艦でラバウル基地にもどることになる。

 モレスビー上空で敵戦闘機十六機と空戦になり、齋藤章飛長、黒澤清一飛長、板野隆雄飛長が各一機、尾関行治上飛曹と中根政明飛長が協同で一機を撃墜し、みな無事に基地に帰着した。ただし、その日の早朝、杉原繁弘飛長が、攻撃隊の出撃前に出された敵機来襲警報に単機追撃に上り、機体故障のためガゼル岬付近海上に不時着戦死している。調子が悪く攻撃隊に入れられなかった零戦に乗ったのかもしれない。

四月十三日、朝から二〇四空は大忙しだった。早朝四時三十分から「基地上空哨戒」に三小隊九機が出撃している。指揮官は日高義巳上飛曹。敵とは遭遇していない。続いて、九時ごろから「駆逐隊上空哨戒」で二小隊六機が出撃。指揮官は鈴木博一飛曹だった。やはり敵と遭遇していない。午後になると敵機来襲の通報で三小隊九機が「敵機追撃」に飛び立っている。指揮官は日高初男飛曹長である。杉田は第一小隊二番機として日高について飛んでいる。三番機は中澤飛長だった。敵を発見できずに四十分で基地に戻っている。

 この日の追撃は戦闘行動調書に記録が残っているが、敵機来襲時の追撃は準備のできた零戦に早い者順で飛び乗って出撃しており、調書に記録されていないことも多かった。ほとんど毎日のように敵襲があり、どれだけ素早くスクランブル発進ができるかを隊員たちは競い合い、先輩の飛行機であろうが早く乗った者勝ちであった。

 ところで、当初は整備員たちが受け持っている零戦に撃墜マークなどを書き込んでいたが、どの飛行機に誰が乗るかがはっきりしなくなり、また、宮野隊長の意向で撃墜数を気にするなという言葉もあり、二〇四空ではマークの書き込みはなくなった。

<参考>


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