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杉田庄一物語 その48 第五部「最前線基地ブイン」 杉田、体当たりで撃墜

 昭和十七年十二月一日。この日は早朝から若手たちが哨戒任務を兼ねて対B17撃墜法の訓練をしていた。「若手を空戦に連れて行ってもまだ技量、経験が足りない。実戦に対しての場慣れが必要であり、味方基地上空に来襲するB17への迎撃戦闘から始めよう。」という小福田の考えであった。

 そもそも毎日のようにやってくるB17に対して有効な攻撃法がない。命中弾を当てても表面で炸裂するだけで致命傷をあたえることができない。B17への攻撃では機体がOPL(光学照準器)からはみ出してしまい、射撃する時の感覚がつかめない。日頃見ている日本の爆撃機は一式陸攻か九六式陸攻で、距離感がつかめない。そこで、宮野大尉の発案により零戦二機編隊でB17の横幅をつくり、模擬襲撃で感覚をつかもうとした。B17は翼の付け根に燃料タンクがあり、これを狙って前下方から薄い角度でせまり照準器に入れるという想定であった。敵機の大きさに惑わされると退避が早くなる。ぎりぎりまで迫って攻撃し、そのまま敵の腹の下をくぐり抜ける捨て身の作戦である。

 一回目の訓練は、宮野隊長ほか大原飛長らが訓練に上がった。二回目の訓練では、一番機神田佐治飛長、二番機杉田、三番機人見喜十飛長が入れ替わりに離陸した。二〇四空の戦闘行動調書には三機と書かれているが、実際は四機だった。小福田は『指揮官空戦機』(小福田貢、光人社)の中で「ある日の撃墜王杉田庄一」という章をたててこの時の詳細を記述している。もう一機は古参の日高飛曹長と記録されている。

 B17爆撃機代わりの目標隊に日高飛曹長と人見飛長が、訓練隊に神田二飛曹と杉田が組んで指定した訓練空域に向かう。目標隊はいち早く訓練空域に入って訓練隊を待つ。しかし、同時に離陸したはずの訓練隊が姿をみせない。

 実は、訓練隊は旋回上昇中、遠くに本物のB17爆撃機を発見し追撃していたのだ。零戦の無線が使えないことが連絡不都合を起こしていた。二人は手合図とバンクで示し合わせ、B17に向かう。

 神田と杉田はB17爆撃機に対して訓練通りに前下方から向かっていく。神田が攻撃を加えたあとに杉田が続く。宮野の教え通りにOPLをはみ出てもぎりぎりまで肉薄する。双方全速での相対速度で、ほんの一瞬の攻撃時間に主翼付け根をねらって機銃を撃つ。

 小福田は、この場面を次のように具体的に解説している。
「零戦とB17が、戦闘状態で向かい合って接近する場合を計算してみると、だいたい一秒間に二百五十メートルくらいの速さで接近する。しかも、射撃は、実際は百メートルか百五十メートル以内でないと、二十ミリ機銃は命中しない。だから、引き金を引いてから、照準をやめて退避するまでに、二分の一秒ぐらいしかない計算になる」

 せまる巨大な機体に杉田はひるまなかった。双方の機体が触れ合ってすれ違う。杉田の右主翼翼端及び垂直尾翼がB17の右主翼を切り裂いた。さすがのB17もバランスを崩して墜落する。杉田の零戦も方向舵が潰れていた。左右のエルロン(補助翼)を使ってフラフラしながらもかろうじて着陸することができた。杉田はエンジンを切って操縦席から降りると「やった!やった!」と大はしゃぎであった。神田二飛曹も着陸すると大喜びで「おい、B公を一つ落としたぞ・・・」と集まってきた整備員たちに叫んだ。その日の戦闘行動調書には、「二番機(杉田)攻撃の際尾翼垂直安定板及右翼端を以て敵の右翼を切断す」と記録されている。

 連日のように基地を襲撃し、たとえ命中弾を当ててもなかなか墜ちない、にっくきB17爆撃機の二〇四空初撃墜である。基地ではたいへんな大騒ぎになった。しかし、連絡のないまま待ちぼうけを食らった日高飛曹長たちの目標隊は、いつまでもやってこない訓練隊を旋回しながら待ち続けていた。普段は温厚な日高であるが、「目標隊も見つけられないではぐれるとは、まったくしょうがない」とカンカンであった。

 ところでくだんの二人はいざ小福田飛行隊長に報告となった時、ニコニコと笑いの止まらない神田に対し、最初はしゃいでいた杉田が神妙な面持ちに変わっていた。「飛行機を壊すな」と日頃から小福田にうるさく言われていたことを思い出したのだ。さらに「空中衝突は絶対にいけない。搭乗員の恥である」とも教えられていた。これはぜったい怒られる。杉田は意気消沈してしまう。肩を落として小福田に報告すると、「よし、よくやった。杉田飛行兵。衝突、接触は絶対にいけないというのは、味方同士の場合のことで、相手が敵となれば話はべつだ。落とし方がどうであろうと、敵をやっつければこっちの勝ちだ。とくに相手がB17爆撃機となれば、殊勲の手柄だ」と、思ってもいなかった言葉をもらった。

 夕方には宿舎の天幕に清酒が一本届く。さらに小福田は搭乗員を全員集め、次のように訓示した。
「戦闘機の射撃は、一にも二にも、『肉薄攻撃』に尽きる。敵に向かって、つねに衝突するつもりで突入、肉薄することだ。そして、もう一秒か二秒で衝突という直前に機銃の引き金を引け。引くと同時に、力いっぱい退避しろ、これでいいんだ。なまじっか、普通の射撃訓練の要領で、敵影を照準器に入れ、適当な距離に入ったところで射撃開始などというお行儀のよい優等生型の射撃では、実戦では、敵は落とせない。実戦における射撃は、一にも二にも接近肉薄、ぶつかる寸前に引き金を引け。今回の杉田飛行兵のように、本当に敵に衝突しなくてもよいが、衝突するぐらいの肉薄攻撃の闘志は、じつにりっぱだ。明日からみな衝突するつもりでやれ・・・・・」

 杉田の衝突撃墜は隊の士気を高めるものだったと小福田は記述している。また、島川によると杉田の衝突撃墜のあと、B17爆撃機による定期便がしばらく途絶えたという。

 「肉を切らせて骨を切る」のような高速での肉薄攻撃は杉田の空戦スタイルのもっとも基本的なものになった。名人芸と呼ばれた回り込みを重視するこれまでの空戦とまったく違う一撃離脱法だった。それは宮野隊長の教えでもあった。

 この一撃離脱を用いた編隊空戦は、ヨーロッパの航空戦から広まり、米軍もこの時期には取り入れていたスピード重視の空戦法だった。「超接近、短射撃、高速離脱」の空戦法を杉田は身につけた。

 後に笠井など後輩を指導するときにも、うるさいほど「超接近、短射撃、高速離脱」にこだわった。また後日、直属の上司となる菅野直大尉に対して兄のように慕うようになったのも、「ぶつかるほど接近」する菅野の戦い方に共感共振したからだった。

<OPL(光学照準器)>
 日本海軍戦闘機の照準器は、初期から使われた眼鏡式と光源を用いてレンズに映像を投影する光像式とがある。日本海軍はフランスのOPL社の光像式照準器を昭和七年に輸入し、以後構造式照準器をOPLと呼称した。実際はOPL社との縁は切れていたにもかかわらず、ドイツ製のレビ(Revi)シリーズをモデルとして日本で開発した光像式照準器もOPLと呼称し続けた。
 日本初の光像式照準器は、Revi2bをモデルとした九十八式射爆照準器で零戦に標準装備された。もちろん国家の重大機密として開発された。振動やレンズの質、光源、追突時の危険性などさまざまな難題を克服して改良され続け、紫電改には四式照準器が標準装備された。・・・資料:scole Aviation「陸海軍捨遺集」(木村益雄)

<B17>

<参考>

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