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飛行機の本#40『B29撃墜記』(樫出勇)

 樫出勇氏(かしいでいさむ)は、第二次世界大戦時、「世界で最も撃墜されにくいB29を世界で最も多く撃墜した戦闘機パイロット」である。 

 新潟県柏崎市北条出身ということで、ちょっと思い入れがある。我が家から見える米山の向こう側だ。この本の書き出しも、樫出さんが生まれ育った、そして戦後過ごした北条の紹介から始まる。そして故郷の夕刻での残照から、いきなり暗闇の中でのB29への邀撃シーンに引きずり込まれる。映画のような展開である。いや、劇画のような展開と言った方がいいかな。
 「距離八十メートル!私は、三十七ミリ砲の引鉄を引いた。発砲の衝撃が、ドーンと機体に伝わる。弾丸が引き込まれるようにして、敵機の左翼取り付け部に炸裂している。しかし、同時に敵機の巨大な機体が、頭上からかぶさるように迫ってきた。」

 驚くのは80近い年齢で書いた樫出氏の文章が、極めてクリアーなのだ。形容句が少なく読みやすい上に、緊張感のつたわる文章で、一気に読み終えてしまった。特に戦闘場面の記述など、本人でしか書けない実相が伝わってくる。以下は、スクランブル発進の場面である。
 「各隊は、いっせいに試運転を開始した。
 私は、各空中勤務者に対して、簡単に伝えた。
 『報告は省略する。各自、慎重に行動せよ。離陸は、逐次。編成順に出発。すみやかに乗れ!』
 指示を与えると、私も愛機に搭乗して出動命令を待った。
 飛行場では始動車のライトを赤布で覆い、空襲警報下の行動に最新の注意を払いながら、他の攻撃隊の機のエンジンを回し回っている。
 やがて、各隊、各機の指導が終わると、地上での無線調整がやかましく始められた。」

 樫出氏は、大正4年生まれ、当時の新潟県刈羽郡北条村で七人兄弟の四男として生まれ、昭和九年に陸軍少年飛行兵第1期生として所沢陸軍飛行学校に入学、明野陸軍飛行学校を経て、昭和十一年、飛行第1連隊に配属。昭和十四年に九七式戦闘機でノモンハン航空戦に参加し5機撃墜している。少尉候補生として陸軍士官学校を卒業し、少尉任官。太平洋戦争では、山口県小月基地の二式複座戦闘機『屠龍』部隊に所属し本土防衛任務にあたった。昭和十九年から日本本土を襲うようになったB29の迎撃をおこない26機を撃墜している。

 高高度を飛んでくるB29を墜とすのは容易でなく、当時の日本機はその高度にあがることさえままならなかった。二式戦闘機や三式戦闘機の部隊では、重たい武装や無線機などをはずし、時間をかけてようやくその高度に達するのがやっとで、体当たりをもって墜とすのを戦法とするしかなかった。そのような状況での樫出氏の戦果は比類ないものであった。所属した部隊全体であげた戦果も多く、『屠龍部隊』の活躍はめざましいものだった。

 二式戦闘機のニックネーム『屠龍』の名前も、この活躍にふさわしいものかもしれない。龍(B29)を屠る・・・英語にすれば、ドラゴンスレイヤーだ、

 二式戦闘機『屠龍』は、川崎航空機のつくった双発戦闘機である。二式戦闘機というのは、皇紀2602年(昭和17年)に制式化されたことを意味しているが、単座戦闘機『鐘馗』と複座戦闘機『屠龍』の2種類ある。長距離爆撃の護衛を主任務として設計された。主設計者は井町勇技師であったが、当初のせられたハ20エンジンが馬力不足で、思うような性能を出せく不採用となる。そこで、定評のあるハ25エンジンに換装し、主設計者を土井武夫氏(三式戦闘機『飛燕』や五式戦闘機の設計でも有名)として再度チャレンジするがやはり不採用。3度目の正直で、エンジンをハ102(1080馬力)に換装、『九九式双軽爆撃機』の基本設計を流用した新設計でようやくクリアした。しかし、速度が遅いことや空戦性能が単発戦闘機に劣ることから侵攻作戦ではあまり戦果を残せなかった。射撃する時に安定した飛行ができたため(座布団のようだと評された)、大口径の砲をつむことができ本土防空戦に活躍の場をあたえられた。性能的には非力であったが操縦員の努力で戦果をあげることができた。





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