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杉田庄一物語 その71(修正版) 第七部「搭乗員の墓場」 ソ作戦

 六月四日は、「スルミ方面」敵機邀撃戦と戦闘行動調書に記載されていて、四時三十分から八時四十分までの一直、六時十分から十時四十分までの二直、十一時二十分から十五時三十分までの三直と哨戒任務にあたっている。敵の出現の可能性の高い午前八時前後の直を重ねて機数を増やしている。

 この「スルミ方面」には豪軍が築いたガスマタ飛行場がある。昭和十七年日本軍が占拠し、ラバウルから東ニューギニアへの前進中継基地として使われていた。豪軍は奪還をはかっており、この時期敵機の侵攻がはげしくなっていた。この日も、地上での作戦行動があり上空からの支援をおこなっていたと思われる。この日の出動は、各直に零戦二個小隊の八機で行われ二十四機が任務についている。

 杉田はこの日は、一直第二小隊三番機として出撃している。一直の編成は、第一小隊一番機森崎武予備中尉、二番機朝見茂正二飛曹、三番機中野智弌二飛曹、四番機中村佳雄二飛曹、第二小隊一番機渡辺秀夫上飛曹、二番機人見喜十二飛曹、三番機杉田庄一二飛曹、四番機八木隆次二飛曹。

 六月五日は、編隊訓練中の事故で甲飛五期の杉原進平上飛曹が戦死している。離陸しようと発進位置についたところ、後方より着陸してきた二五一空の二式陸偵に接触され、その下敷きになって頭部を負傷、死亡した。杉原は、同期の辻野上場飛曹と同様に飛行時問は多かったが、ラバウルに着任してまだ二ヵ月半、これからの活躍が期待される搭乗員であった。

 ラバウル基地では各航空隊とも連日の出撃が続き、搭乗員が疲弊してきた現れかもしれない。少し前の五月二十九日にも、川岸次雄二飛曹が着陸周回時に突然エンジンが停止し、海中へ墜落戦死している。整備不良の事故が疑われる。連日の出撃は搭乗員だけでなく整備員を含め、基地の隊員全てを疲弊させる。連合国軍の侵攻が激しさを増し、隊員たちには余裕がなくなっていた。

 六月六日、制空権を奪回する第一次「ソ作戦」が動き出す。翌日の作戦開始に合わせて、ブイン基地に二〇四空の零戦三十二機と五八二空の零戦二十四機が集結した。ブカ基地には二五一空の零戦四十機が進出した。ブイン基地は前線基地としてますます重要性を増してきており、第二飛行場の建設も行っていた。

 六月七日のルッセル島迎撃には二〇四空二十四機に五八二空、二五一空が参加し、合計八十一機の零戦で出撃した。二〇四空だけがこの日から四機で一個小隊を組む新編成でのぞんだ。

 ルッセル島には複数の敵飛行場が急速に整備されてきており、ここから発進する敵戦闘機による被害が増加していた。零戦だけで攻撃すると敵戦闘機は退避してしまうことが続いたので、宮野の提案で零戦に三十キログラム爆弾を二個翼下面に付け、爆装零戦で攻撃を行うことにした。横山少佐によって研究をしてきた爆装零戦の初実戦である。爆弾を落とすまでは艦上爆撃機のフリをして敵戦闘機をおびき寄せ、爆弾を落とした後はすみやかに態勢を整え敵機と空戦を行うという危険な作戦である。

 爆弾を落とすタイミングが遅れれば敵戦闘機の餌食になるし、爆弾を落とした後も爆弾懸架装置が翼下面についたままで空気抵抗が増して空戦に不利になる。提案をおこなった手前、二〇四空の宮野中隊の八機が爆装隊を引き受けた。この日は米軍も相当数の戦闘機で迎撃に上がり大空戦になった。

 編成は「爆装零戦による中隊」と「通常零戦による中隊」の二つに分かれている。
「爆装零戦による中隊」
第一中隊第一小隊
 一番機宮野善次郎大尉、二番機大原亮治二飛曹、三番機辻野上豊光上飛曹、四番機柳谷謙治二飛曹
第一中隊第二小隊
 一番機日高義巳上飛曹、二番機山根亀治二飛曹、三番機坪屋八郎一飛曹、四番機田中勝義二飛曹

 「通常零戦による中隊」
第二中隊第一小隊
 一番機森崎武予備中尉、二番機浅見茂正二飛曹
 三番機 中野智弌二飛曹、四番機中村佳雄二飛曹
第二中隊
 第二小隊一番機渡辺秀夫上飛曹、二番機田村和二飛曹
 三番機杉田庄一二飛曹、四番機人見喜十二飛曹
第三中隊
 第一小隊一番機日高初男飛曹長、二番機黒澤清一二飛曹
 三番機神田佐治二飛曹、四番機中澤政一二飛曹
第三中隊
 第二小隊一番機鈴木博上飛曹、二番機渡辺清三郎二飛曹
 三番機岡崎靖一飛曹、四番機小林友一二飛曹

 目標上空に達し、爆装隊は投下態勢をとるべき緩降下を始める。高度は八千メートルから六千メートルへとダイブしていく。隊長機右側にいた大原は左前方に遠くに左旋回で近づいてくるP38戦闘機二機を発見する。隊長機左側にいた柳谷は、編隊中央を飛ぶ隊長機を見ているためどうしても左側の監視が弱くなる。そのため接近しているP38には気づかなかった。早く爆弾を落とさねばとあせる大原はいら立つが、P38は急速に隊長機に近づいて一瞬のうちに攻撃して飛び去った。一撃離脱を受けたのだ。

 その直前、柳谷は爆弾を投下していたが同時にP38を発見した。「敵だ!」と思った瞬間、全身にするどい痛みを感じた。隊長機をねらった攻撃が自分に当たったのだ。どこだ?とからだを見回すと、操縦桿を持つ右手にはげしい出血があった。しかし感覚はない。足もやられていて、飛行靴がめちゃくちゃになっている。足は動かない。頭も割れるように痛い。幸いエンジンは被弾していないようでちゃんと動いていた。

 右手で操縦桿をつかめない。見ると親指を残してほかの四本の指が吹き飛んでいた。左手で操縦桿を持ち替えて、逃げ出すために急降下する。海面スレスレで水平飛行に移し、痛さと出血で意識朦朧としながらも数百キロの海上を飛び続け不時着場に指定されていたムンダの飛行場に着陸した。地面についてエンジンのスイッチを切ると同時に意識を失った。

 陸戦隊員たちが柳谷を零戦から降ろしてテントにかつぎこんだ。軍医が見ると、右手はぐちゃぐちゃになっている。このままだと破傷風になると判断した軍医が、麻酔薬もないままノコギリで右手を切断した。柳谷は口に脱脂綿が詰められていたので叫ぶこともできず再び意識を失った。

 この日の空戦は三飛行隊が同時に出撃する合同作戦だったが、他の隊もあわせて四十一機(不確実七)を撃墜したとされている。二〇四空では、田中勝義二飛曹がP40戦闘機を一機、森崎予備中尉がF4Fを一機、中野智弌二飛曹がF4Fを二機(内協同一)、中村佳雄二飛曹がF4Uを一機(不確実)、P39を二機(内協同一)、人見喜十二飛曹がF4Fを一機(中村と協同)、日高初男飛曹長と黒澤清一二飛曹が協同でF4Fを一機、神田佐治二飛曹と中澤政一二飛曹が協同でF4Uを一機、鈴木博上飛曹がF4Fを二機撃墜している。杉田もF4Fを二機撃墜(内協同一)しているが、被弾四発と記録されている。

 かつてない大空戦になり戦果をあげているが、爆装零戦での攻撃にはやはり無理があったのか、柳谷二飛曹が被弾重傷を負っただけでなく、日高上飛曹が行方不明、岡崎靖一飛曹と山根亀治二飛曹も戦死しており、他隊とあわせると九名未帰還、被害も甚大であった。爆装零戦での作戦は、爆撃での戦果はあまり得られなかったうえ被害が大きく、以後中止となった。山本長官の護衛機だった六人の搭乗員のうち三人が戦列から消えることになった。

<引用・参考>

国立公文書館アジア歴史資料センター


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