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杉田庄一ノート38:昭和18年3月204空ラバウルにもどる

 連合軍は、ガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を追い出すという「第一任務」を完了し、ソロモン諸島とニューギニアの双方からラバウルの日本軍を追い詰める「第二任務」へと進めることになった。日本軍は防衛線をニュージョージア島のムンダ基地からニューギニアのサラマウアまでとした。戦線を立て直すためには海軍と陸軍の連携が必要であり、頻繁に会議が行われた。海軍の最高指揮官は、草鹿任一中将で、陸軍は今村均大将である。連合軍のような統一した指揮系統はなく、あくまでも連携のもとでの共同戦線で指揮系統は別であった。

ラバウル航空戦図昭和18年3月


 しばらくは連合軍側も日本側も陣形立て直しの時期にはいったため大規模な空戦はなくなった。それでも日本からの駆逐艦による物資輸送隊への攻撃が続いていたが、2月26日に204空は582空と交代してブイン基地からラバウル基地へ戻る。ラバウル基地周辺には軍事施設や慰安所などもあり、その規模からも生活面からも前進基地のブインとは大きく違っていた。

 3月に入ると人事異動で司令の森田千里大佐や飛行隊長兼分隊長の小福田少佐は内地に転勤になり、新司令は杉本丑衛大佐に飛行隊長は空席のまま飛行長の宮野大尉が事実上の責任者となった。3月15日には、宮野大尉が正式に飛行隊長兼分隊長となる。

 アメリカ軍はニューギニア東海岸オロ湾を拠点としてニューブリテン島を攻略しようとしていた。ニューブリテン島の東北の位置にラバウル基地があり、オロ島に集結している連合軍の艦船への攻撃が計画された。

 3月28日、582空の艦上爆撃機18機と護衛の204空の零戦12機、253空の零戦27機でオロ湾にいる敵艦船への攻撃命令が下った。艦爆隊の戦果は巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を各撃沈、大型輸送船1隻大破であった。しかし、艦爆隊にも3機の喪失があった。204空零戦隊の戦果として6機の撃墜が記録されている。杉田もこの作戦に参加していた。

 この頃、空戦が続く中で搭乗員が欠けていくがまだ中堅どころの搭乗員も補充もされていた。宮野大尉のもとで士気も高くなり、大きな基地にいるということで搭乗員たちの気持ちにもゆとりができていたようだ。その頃の雰囲気を表すエピソードが二つ、『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』(神立尚紀、光人社)の中で紹介されている。

 「『前にいた201空もいい部隊でしたが、204空はとびきりいい雰囲気の部隊でした。宮野大尉は思いやりがあっていい隊長でしたし、隊全体が、まるで一家団欒のように仲がよかった。
  出撃から帰ってくると、夕方から夜遅くまで、毎晩のように酒を飲む。前線でもビールは潤沢にあって、特に搭乗員は大事にされているから、酒保から届けさせて好きなだけ飲めるんです。一晩にビール二十本ぐらいは飲んでいました。ただし、戦給品以上に飲むのには金がいる。そこで、時には司令や飛行長を招待して、その人のツケで届けさせたこともありました。
 夜中に主計兵を起こして、すき焼きが食いたい、おはぎが食いたいというと、言われた通りに作ってきてくれる。
 搭乗員は総員起こしで起きなくてもよく、次の日の出撃に間に合うように起きればいいんです。翌日は、やっぱり酒は残っていますね。一人で立っていられないようなのもいて、そういうのは整列の時、整備員に体を支えてもらう。で、おぶってもらって飛行機に乗る。
 ところが、操縦桿を握ると、とたんにシャンとするんです。離陸して、大丈夫かな、とふり返ると、さっきまでフラフラしてた奴が、ピッタリ1メートルの距離を置いてピシッとついてくる。
 どんなに二日酔いでも大丈夫でした。みんな一騎当千、自分がやられるなんて思ってもいない。戦友が戦死しても、自分だけはやられないと思っているのが戦闘機乗りです。空戦になったら敵を墜としてやる。それだけでした。士気は本当に高かったですね。」

 これは4月3日に転勤してきた渡辺秀夫一飛曹の話。もう一つのエピソードは、杉田にかかわるものだ。

 「海軍では、下士官兵の長髪は原則として認められていなかったが、飛行帽をかぶっていると外からは見えないということで、204空の搭乗員の多くは髪を伸ばしていた。大原飛長をはじめ、多くの搭乗員がやっていたのは、散髪の時に髪の毛を直径1センチぐらい残して刈って、残したところだけ長く伸ばすという髪型(?)で、これは『蜘蛛の糸』のように、いざという時はこの世に引っ張り上げてもらおうという縁起担ぎだが、無精を決め込んで全体を長く伸ばしている者もいた。
 ある日、副長(兼飛行長)・玉井浅一中佐が搭乗員を整列させて、訓示の終わりに突然、『帽子取れ』と言った。髪を伸ばしているのがばれれば怒られる。そう思いながら、搭乗員たちは恐る恐る帽子を取った。玉井中佐は搭乗員の頭を見渡すと、中でも髪をボサボサに伸ばしている杉田庄一飛長に、『あとで俺のところに来い』と命じて、解散させた。杉田が叱られるつもりで、神妙な面持ちで副長室に行ってみると、玉井中佐は、『おい杉田、伸ばすんなら手入れぐらいしておけ』とだけ言って、ポマードを一瓶、渡してくれたという。」

 この玉井副長とは後日また縁がある。1年後の昭和19年11月、当時の201空でやはり副長だった玉井中佐のもとに、列機の笠井智一さんを伴いピストルをもって特攻志願に行くのだ。そのときは、体よく諭され内地に帰ることになるのだが。

 海軍甲事件の起きる前、まだまだやんちゃだった杉田の様子が窺い知れる。



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