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杉田庄一ノート48:昭和18年6月16日「宮野善治郎死す」

 6月16日「ルンガ沖航空戦」で204空隊長の宮野善治郎大尉は未帰還となる。この日は杉田も第二中隊第二小隊の小隊長渡辺秀夫一飛曹の3番機として参加している。

 その日の朝の出発時の様子を『零戦隊長』(神立尚紀、光人社)では、582空庶務主任だった守屋清主計中尉の言葉を引用しながら次のように記している。このとき守屋中尉の言葉で先に描かれた582空の進藤少佐は、後日、宮野戦死後に204空の隊長になる。

 「午前十時、ブイン基地出撃。・・・<焦茶色の飛行服に同色の救命胴衣をつけ、飛行帽に半長靴で身をかためた帝国海軍の誇る 『ラバウル航空隊』の精銳である。首に巻いた純白の絹マフラーが、凛々し美しい。
 談笑しながら愛機へ向かう姿には、何の気負いも見られず、たのもしい限りであった。カメラを手に指揮所にいた私も、発進を見送るべく滑走路の方に向かった>(守屋主計中手記)
  守屋が見ている前で、進藤少佐機が滑走路の中央に出た。進藤機は、長銃身のニ号銃三型を装備した新型の零戦ニニ型甲である。機番号は一七三、濃緑色の機体の後部胴体に描かれ た、黄帯ニ本、《型の指揮官標識が鮮やかに印象に残った。
 <風防を開けたハワイ攻擊の猛者進藤少佐は、司令官以下の見送りに軽く敬礼するや、白いマフラーを風になびかせてと発進にうつった>(守屋主計中尉手記)
 守屋は、カメラアングルを変えるべく、飛行場内を走った。司令官以下が帽を振って見送る中、進藤機に続いて、五八ニ空(進藤少佐をふくむ十六機)、ニ〇四空(宮野大尉以下二十四機)、ニ五一空(香下中尉以下八機)の順に、砂塵を上げて次々と離陸する。宮野大尉の名はすでに全航空部隊に嗚り響いていたので、守屋もよく知っていた。守屋は、この高名な零戦隊長の発進シーンを撮ろうと、カメラの逆ガリレオ型ファインダーをのぞいて待ち構えた。やがて、宮野が操縦する204空の一番機が離陸滑走を開始する。翼端を角形に切り落とした三ニ型、 後部胴体には黄色い直線ニ本の指揮標識が描かれている。宮野機は、思ったより短い滑走距離でフワリと離陸した。ちよっと遠かったが、守屋は夢中でシャッターを切った。
 戦闘機隊に続いて、二十五番(二百五十キロ)爆弾一発と六番(六十キロ)爆弾ニ発をかかえた江間大尉率いる五八ニ空艦爆隊も離陸。十時五分、ブ力から飛来した大野中尉率いるニ五一空二十二機とブイン上空で合同し、空を圧する大編隊は一路、東南方面に向かって飛んでいった。」

 日本機・米機合わせて200機の大空戦がガダルカナルの北西端のルンガ沖で繰り広げられる。詳細はnote「杉田庄一ノート47:昭和18年6月16日『ルンガ沖航空戦』」に書いたので略すが、宮野隊の4番機中村二飛曹は、空戦で重傷を負う。すると、よりそうように宮野大尉がやってきて緊急着陸を指示する。みずからも激しい空戦にありながら常に部下を見ている、宮野はそのような隊長であった。宮野が率いる234空に与えた宮野の薫陶は、部下たちにも引き継がれていく。後に杉田も編隊列機の動きを常に見守っていたことを笠井は述懐する。笠井は、敵機を深追いしすぎたところを見られいて、普段殴ることのない杉田に殴られている。宮野は、強い影響を部下たちに与えた。

 中村二飛曹に不時着の指示を与えたあとの宮野の様子を、『零戦隊長』(神立尚紀、光人社)では八木二飛曹の回想で記している。
 「艦爆もずいぶん煙を吐いて突っ込んだ。下にもグラマンがいて繫ち合いが始まっていた。 宮野大尉が煙を吐いた中村機に不時着の指示を与え、空戦場に引き返してきた後、ニ度見た。 翼端が切ってあり(三ニ型)、胴体に黄帯ニ本のマークのついた隊長機が飛び回っているのを 見ましたよ」

 その後、宮野を見たものはおらず未帰還となる。森崎予備中尉も未帰還であった。その日のうちにラバウルに帰投したのはわずか6機であった。翌日、ブインやブカに緊急着陸した11機がラバウルに帰ってくるが、宮野と森崎はとうとう姿をあらわさなかった。

 ところで、『ラバウル空戦記』(第204海軍航空隊編、朝日ソノラマ)に、杉田庄一から聞いた宮野隊長の最後の姿を相楽上整曹(上等整備兵曹)のエピソードとして載せられている。
 「兵器員相楽孔上整曹は、最後まで宮野隊長機についていた親友杉田庄一二飛曹から聞いた隊長の最期の模様を、宮野隊長の実兄真一氏(大阪府八尾市在住)に次のように書き送っている。
 『(前略)昭和十八年六月十六日、ツラギ、ルンガ泊地敵艦船攻撃艦爆隊直援のため、戦闘機二十四機をもって出撃しましたが、敵の強力な反撃に会って味方に大分被害があり、あらかじめ決められた集合地点に戻って来たのは、宮野隊長をはじめ、杉田君のほか数機だけだったそうです。
 機数が少ないし、集まりが遅いのを心配した隊長は、再び戦闘空域に戻って飛びはじめたそうです。杉田君もすぐあとを追って行ったのですが、そのとき上方からグラマンが現れ、一瞬にして隊長機の姿は、見えなくなってしまったとのことでした。そのときが、隊長戦死の瞬間だったのでしょう』」

 神立尚紀氏も、このエピソードについて『零戦隊長』(神立尚紀、光人社)で触れているが、やはり杉田の戦友で同室だった大原亮二氏がこの話を聞いていないということで懐疑的である。大原氏は、杉田から山本五十六が戦死した当日にそのことを密かに伝えられている。そのような仲なのに、宮野隊長の最後を聞かないわけがないという判断だ。

 相楽氏は、昭和13年に第二期甲種飛行予科練習生として横須賀航空隊に入ったが、病気で搭乗員を断念し整備科に転科した六空時代からの兵器員である。下士官と兵の間や搭乗員と搭乗員外の間はとかく軋轢や陰惨な関係が多かったという証言が多いが、六空(後の204空)では、宮野隊長の人柄から下士官と兵や搭乗員と搭乗員外もたいへん仲が良かった。特に相楽と杉田は仲が良かったということで、『ラバウル空戦記』(第204海軍航空隊編、朝日ソノラマ)には次のようなエピソードが書かれている。相楽は整備科ではあるが下士官の兵曹である。杉田は搭乗員であるが上等飛行兵でしかも最年少だった。
 「六空に杉田庄一という新潟出身の元気のいい上等飛行兵がいた。彼はのちに柳谷謙治らとともに、山本連合艦隊司令長官がブインで戦死したときの六機の護衛戦闘機隊の一員となるのだが、当時はまだ駆け出しの若輩パイロットだった。ミッドウェー作戦以来ずっと一緒だったこともあって、相楽は杉田とは気が合った。あるとき、杉田が相楽を誘った。
 『相楽兵曹、今日はわたしがおごるからいっぱい呑みましょう』
 『そうか、そいつはありがたい。だがお前、フトコロは大丈夫か』
 『どうせ冥土には持って行けない金です。せめて死なないうちに、日ごろお世話になっている相楽兵曹に飲んでもらわなくっちゃ』
 そんなやりとりのあと外出したが、『下士官が兵隊に金を出させる手はないよ』
ということで、結局は相楽がおごることになった。だいぶ酒がまわったころ、杉田はキッと顔を上げていった。
 『相楽兵曹、わたしは操縦の技量はよくないが、元気で行きますよ。元気で、ね』
 その真剣なまなざしに相楽は一瞬ギクリとしたが、『この男は、きっとりっぱな戦闘機乗りになる』と思った。
 相楽の予想どおり、のちに杉田は百機以上を擊墜して、終戦直前に華々しく戦死した。」

 関係者がみな亡くなっている以上、宮野大尉の最後はどのようなものかは定かではない。しかし、最後まで部下のことを気遣っていたことは確かである。

 杉田は、この宮野隊長からたいへん多くの影響を受けていると思われる。まだ、ひよっこだった杉田は六空(204空)では、下士官から無理な制裁を受けることもなく伸び伸びとその素質を育てられた。無茶をやっても怒られず、夜になると車座になって酒を飲み交わす。陰湿と言われる軍隊であるが、宮野の率いる隊は違ったのだ。皆が開放的でよい人間関係が築けていたのである。「だまってオレについてこい」とか「絶対に編隊から離れるな、オレが撃ったらいっしょに撃て」など、後に杉田は宮野の言動をそのままに後輩の笠井らと接している。杉田に限らず、この宮野隊長のもと生き延びた部下たちはその後自分自身が宮野のような先輩として後輩に接している。

 宮野善治郎については、大著『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』(神立尚紀、光人社)に詳しいが、ここでは『ラバウル空戦記』(第204海軍航空隊編、朝日ソノラマ)での紹介を引用する。

「楠公発祥の地、大阪府八尾市にある野球の名門校八尾中学(大阪府立三中、今の八尾高校)の出身である宮野大尉は、長身、ハンサム、なかなかのスタイリストであり、海軍の軍服のよく似合う青年だったから、女性の目をひく存在だったらしい。
 まだ、彼が海軍兵学校の生徒だったころ、大阪府交通局の看護学生だった妹美津子さんに面会に行くと、短剣姿のさっそうとした宮野生徒を一目見んものと、面会室の窓の外はすずなりだったらしい。
 戦地での宮野大尉は、半ズボンにひざまである白いストッキングをはき、ジャワで買った革のサンダルというしゃれたスタイルだった。
 『話をするとき、半身に構えるのがクセだったが、それが実にしぶくて、男でもほれぼれとするほどだった。部下思いで、ごくふつうの上空哨戒に上がるときでも、指揮所から降りてきて、しっかりやって来いよと声をかけてくれた。それが自然で、士官と下士官兵といった階級の差を全く感じさせなかった。』
 と、当時の部下八木隆次上飛曹は宮野隊長について語っている。また兵器員だった整備員の相楽孔上飛曹も、先に紹介した宮野真一氏あての手紙で、
 『昭和十八年三月十九日、敵船団攻繫隊直援のため、戦闘機二十一機が早朝より列線に準備され、いよいよ発進の時期が近づいたときでした。コンソリデーテッド飛行艇が一機やって来て焼夷弾を十数発落とし、発進準備中のわが零戦の列線近くにも数発が落ちました。
 このとき、防空壕に入らず、列線に残ってじっと空をにらんでいた宮野隊長は、列線に落ちてくすぶっている焼夷弾を拾い上げ、遠方にほうり投げました。その勇敢さには、全く驚きました。
 また、隊長生前に、わたしに内地の教育部隊への転勤命令が出たのですが、なかなか交代者が来ないので、内地転勤がだいぶおくれたことがありました。隊長が心配されて、「もう少しのしんぼうだ。交代者が来るまで、しっかりやってくれよ」とはげましてくれ、さらに、敵の後方攻撃も活発になって船で帰るのも危険な時期でしたので、『よくやってくれたから、飛行機で帰れるようにしてやる』とも言ってくれました。当時、飛行機で転勤できるのは士官以上と搭乗員ぐらいのものでした。
 そのうち、隊長はガダルカナル上空で散華され、わたしは巡洋艦で帰って来ましたが、そのお言葉たるやいまだに忘れることはできません』と述べ、武人として最高の人だったと結んでいる。
 独自の四機編制小隊を採用したり、零戦の戦闘爆撃機的用法を開発したり、さらに小福田少佐と一緒に艦爆隊の犠牲を少なくする直援方式をあみ出すなど、宮野大尉は多くの新しい戦法を生み出した。海軍戦闘機隊指揮官としての卓越した宮野大尉の功績に対し、戦死後全軍布告、ニ階級特進の栄誉が与えられ、海軍中佐に任ぜられた。単独撃墜数は十六機といわれるが、実際はもっともっと多かったと想像される。」

 士官二人を失った204空は、しばらくひっそりしていた。6月30日、連合軍はレンドバ島に上陸を開始し、次のステージに進むことになる。

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