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杉田庄一ノート60 昭和19年4月、編隊飛行訓練

 杉田一飛曹の編隊に組み入れられた笠井氏ら甲飛10期生は猛烈な訓練を受けた。初対面のときに恐ろしい顔で現れた杉田に「ぶん殴られるかも」と恐れていた笠井氏ら列機の三人は、逆に「俺の愛する列機こい!」と酒盛りの歓待を受けることになった。初対面から度肝を抜かれたのだが、訓練が始まってからさらに驚愕することになる。ちなみにこの時、笠井さんは17歳、杉田は19歳である。『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中で次のように書かれている。

 「文字通り百戦錬磨の杉田兵曹は、操縦も射擊もとてもうまい人だった。グアムでは、 内地でほとんどできなかった操縦訓練を杉田兵曹から存分に教わった。単機訓練では、杉田一番機がする同じ格好、つまり直角に曲がったら同じように曲がるというふうに、真後ろについて航跡をなぞって飛ぶ追躡運動(ついじょううんどう)を通して、空戦に使える難しい空中運動を教わった。「捻り込み」(ひねりこみ)とよばれた、斜め宙返りの頂点で操縦桿とフットバーを操作し、捻りを入れることによって宙返りの半径を極限に小さくする方法などは、言葉では絶対に教育できない操作だ。こんなことも杉田兵曹からグアムでみっちり仕込まれた。なお、追躡運動は編隊を組むための訓練にもなった。
 編隊行動では列機はみな、一番機がやることをつねに見ておかなくてはならない。 一番機が気流で震えるようなことがあれば、同じく震わせる、そのくらい一番機を見ておかなくてはならない。動作がまばたき一瞬遅れただけで、編隊は大きく崩れてしまうからだ。編隊では機と機の距離の取り方がなかなか難しいが、そのためのスロットルの加減の秘訣のようなこともすベて具体的に杉田兵曹に教わった。」

  そもそも編隊空戦とは、戦闘機同士の戦いが1対1で「ひらりひらり」と舞うように飛んで相手の後ろについて撃墜する時代から、スピード重視で相手を追い火力を集中して一撃離脱の時代に変化したことに伴って生まれた空戦技法である。編隊を組むことで複数機が足並みそろえて火力を集中することができ攻撃力が増す、また複数機が守りあえることも利点となる。複葉機の時代から飛行機の進歩と共に進化してきてたどりついた空戦技法ともいえる。

 この編隊による空戦を編み出したのは、1938年のスペイン内乱時のドイツ空軍で、ヴェルナー・メルダースが考案したと言われている。編隊長機と僚機(日本海軍では列機)の2機が最小単位でロッテ(分隊)という。ロッテが(分隊)二つ組み合わされてシュヴァルム(小隊)となる。親指を除く四本の指先をそろえた形で編隊の位置を決める。これをフィンガーフォーといい、中指の位置に小隊長(兼第一分隊長)、人差し指の位置に三番機(第一分隊列機)、薬指の位置に二番機(第二分隊長)、小指の位置に四番機(第二分隊列機)がくる。それぞれの高さは8mの高度差をとり、編隊長が一番高い位置につく。これは現代のジェット戦闘機でも基本系は同じになる。

 日本陸軍は、Bf109を輸入した時にドイツ空軍のパイロットから編隊での動きを伝授され、いち早く取り入れたが、日本海軍は1943年半ばまでほとんどが3機で編隊を組んでいた。海軍でいち早く取り入れたのが、連日アメリカの戦闘機編隊と緊迫のつば迫り合いをしていたラバウル航空隊で、特に204航空隊の宮野善治郎隊長が4機編隊を積極的に押し進めた。以下は『零戦隊長』(神立尚紀、光人社)の抜粋である。時期は昭和18年(1943)の5月である。

 「六〇三作戦実施を前に、二〇四空では、五月二十八日から、宮野の発案による一個小隊四機の新しい編成による訓練を始めている。
 このところ米戦闘機は四機編成をとり、二機ごとのエレメントで巧みにカバーし合って付け入るスキを見せなかった。敵は一機の零戦に対して、ニ機が連携して戦いを挑んできた。 編隊空戦の訓練が十分でない若い零戦搭乗員は、そのために敵に喰われることが多くなり、 練達の搭乗員もー瞬の見張り不足で盲点をつかれ、擊墜されることが目立って増えていた。
 宮野の一個小隊四機編成のアイデアはこれに対応したもので、一・三番機、二•四番機が最低限一組になって、二機、二機で相互に支援することで、敵の編隊空戦の脅威を除いて空戦を有利に進め、損失を減らす狙いがあった。
 『宮野大尉は、こういう時、意思を徹底させるために必ず自分で、全搭乗員を集めて説明するんです。「はじめからうまくいくことはないだろう。しかし、それに徹してくれ」、黒眼鏡をかけて指揮所の前で木箱の上に立ち、四機編成の意図するところを懇々と説いていました」(大原二飛曹談)

 編隊空戦を前線で戦いながら訓練するのは勇気のいることだったと思う。それまでは自己責任で空戦を行なっていたのを編隊の仲間の命を預かって集団で飛ばなければならないのだ。自己の技量で戦いぬいてきたベテランの搭乗員ほど、二の足を踏んだのではないかと思う。編隊訓練では事故も起きていた。

「訓練中、二〇四空ではニ件の痛ましい事故が起きている。五月二十九日、丙飛ニ期出身(十五志)の川岸次雄二飛曹が、着陸時第四旋回点で突然エンジン停止、機体もろともラバウルの海中に没して死んだ。川岸は、前年十二月にラバウルに来てから半年、二機の撃墜記録を持っていた。六月五日には、甲飛五期の杉原進平上飛曹が離陸しよぅと発進位置についたところ、後方より着陸してきた二五一空の二式陸偵に接触され、その下敷きになって頭部を負傷、戦死した。杉原は、同期の辻野上場飛曹と同様、 飛行時問は多かったが、ラパウルに着任してまだ二ヵ月半、これからの活躍が期待される搭乗員であった。」

 編隊飛行はラバウルを基地とする他の飛行隊、581空や251空でも取り入れられ、その後急速に広まっていくことになる。この時期、杉田は204空におり、宮野大尉からじかに編隊訓練を受けていた。

 さて1年後、今度は杉田が笠井氏たち甲飛10期生に編隊訓練を仕込むことになった。どんな訓練を行ったのだろうか、以下は笠井氏の記録だ。

 「じつは空戦のやり方や操縦技術についてこと細かく教育してくれる先輩は海軍にはあまりいなかった。職人気質のような「見て覚えろ、自分で工夫しろ」というタイプの人が多かった。しかし、杉田兵曹は違った。ラバウルで数多くの空戦を経験し、生き抜いて実績を上げた杉田兵曹ならではの空戦の勝ち方、生き残り方の要諦をきわめて具体的に示してくれた。
  たとえば、『P38に出会ったら、急降下で逃げろ。敵はかならず後を追ってくる。高度ニ千メートルで引き起こして垂直面の格闘戦に持ち込め。低空での格闘なら零戦が勝てる』『敵より先に相手を見つけろ。敵より上空に占位し、太陽を背にして優位な戦いに持ち込め』『前は三〜四割、後ろは六〜七割、そのくらい後方に注意しろ』 など。
 そしてもっとも重要なこととして杉田兵曹は『複数で戦う』ことを徹底して実践した。零戦が一機対一機の巴戦(ドッグファィト)を得意としていたこともあり、日本の搭乗員は単独でも敵に突っかかっていく人がいたが、そうすると敵を首尾よく墜とせたとしても、その後にこちらも別の敵機に撃墜された。連合軍はいつもかならず二機のペアで、しかも一撃離脱で攻撃してくる。杉田兵曹は、敵が複数ならこちらもペアであり、三機であり、四機でないと対等な勝負ができないと考えていた。
 また、撃つときはとにかくぶつかるほどに肉薄して撃って、その後は深追いするな、ということも徹底していた。おたがいが時速五百キロ以上で飛んでいるうえに、二十ミリ機銃の弾道は真っ直ぐではなく放物線を描いて落ちていく。事実、空戦では敵機に肉薄しないと弾は絶対あたらなかった。
 杉田兵曹とは一緒に何十回と空中戦を戦った。編隊で飛んでいると、私たち列機がちゃんと自分について来ているのか、危ない目にあっていないかと杉田兵曹は何度も後ろを振り向いてくれた。そして空戦が終わって基地へ帰投するたびにわれわれを呼んで具体的な修正点を示してくれた。危ない局面も何度となくあったが、彼の力で私は空戦を生き延びられた。彼の空中戦の技量は群を抜いて優れ、真に海軍を代表する功績を残した搭乗員の一人だった。
 余談だが、杉田兵曹とはこんなやりとりもあった。 .
 『いいか、俺(一番機)が撃ったら、何もかまわず、お前らも一緒にとにかく撃て!』『なぜでありますか?』
 『それで撃墜できたら、協同撃墜になる!』
 そんな後輩思いの人でもあった。」

 編隊長が攻撃し、列機はその護衛をするのが基本であり、どうしても戦果を報告する時は編隊長の独り占めになる。列機になると敵に狙われやすく戦果は得られない。そうやって鍛えられていくのだが、杉田は列機の気持ちをわかっていた。列機を訓練し、育てることに必死だった。生きのびる術を全力で教えた。『俺の愛する列機!』という声がけは、伊達で発していたのではなかった。ろくに訓練を積まずに前線に出された甲飛予科練の後輩たちの気持ちをしっかりとつかんでいた。 

 笠井氏の言葉を裏付けるような証言が、『零戦燃ゆ④』(柳田邦男、文春文庫)にある。昭和19年に前線に出された搭乗員である安部正治氏の証言である。
「戦の後半を担当した者から見ると、古参パイロットたちは、実は恵まれた訓練時間と戦闘環境にあったと、最近思うことしきりです。緒戦にあっては、敵戦力も劣勢であり、これに対するわが兵力は練度を上げて満を持していたものでした。後半担当のパイロットたちには、それらがすべて逆の対峙となって現われ、多くの同期も友は特攻につぐ特攻で、零戦パイロットとして撃墜王となる夢もはかなく、全くよいことなしで死んでいったのです。
 戦後になって、あるとき、ある指揮官が『零戦の強かったのはミッドウェイまでであった』と壮語するのを聞きましたが、なればそれ以後の努力は、血は、魂は、どうだったのというのか・・・聞いていた私たちは底知れぬ憤りが全身から噴き出してくるのを感じました。後半パイロットにしてみると、俺たちはあんなに戦ったのに、あんなに大きくなった敵戦闘機と戦って、少しでも墜してきたのに、全力で闘ったのに・・・・何故、いまここで”侮辱”の言葉を聞かねばならないのか・・・と、なおも失っていない戦闘機魂が体の中に燃えるのを感じました。
 敵がサッチ・ウィーブ(空中戦の戦法の一つ)をやれば、わが方の編隊空戦はただ『離れるな』『離れるな』を繰り返すだけ、あれは編隊空戦ではなく、単なる編隊飛行にすぎなかった一面もありました。・・・・(略)
 いま当時を反省して残念に思うことは、先輩が戦略・戦術を教えてくれなかったことです。空戦の前にも後にも検討会がなかったのです」

 杉田から手取り足取り実践的な指導を受けた笠井氏は、常に杉田の列機として前線で戦い、終戦まで生き抜くことができた。これは稀なことだったのだ。



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