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戦争を知る本#7 「海軍経営者山本権兵衛」(千早正隆)

山本権兵衛を日本史の勉強で知った人は、大正時代に2回内閣総理大臣を行ったということで名前を覚えていると思う。私もそうだった。「ごんべえ」という名前は覚えやすい。何をした人かはよくわからない・・・。

ドイツ留学時の権兵衛

この本を読んでみて、今、よく理解できたことが二つある。

写真でみたジイさんの山本権兵衛首相にだまされてはいけない。彼が本領を発揮したのはとても若い時だ。46歳で海軍大臣に、そして51歳で総理大臣になっているが、それまでに彼が行ったのは、日本の海軍の礎を作り、日清戦争で海軍を成長させ、日本海軍をもってロシアとの戦争に勝つまでにしたことだ。

20代の若造のときから40代までの間だ。若者にすぎない権兵衛がなぜそのようなことができたかというと西郷従道に重用されたからだ。最初に行ったことは自身が薩摩藩出身でありながら、海軍における薩摩藩閥を切ることだった。97人の将官、尉官をクビにしている。現役の半分の官僚がいなくなった。薩摩藩がそれだけ牛耳っていたということである。しがらみを断ち切り、組織を再生させることに成功する。経営センス抜群の若者だったということが一つ目の理解である。この経緯をもって千早氏は「海軍経営者」という視点でこの本を書いている。明治維新の時ではない。すでに帝国憲法のもとで内閣が動き出していたし、海軍も形はできていた。その中身を作り上げたのが権兵衛だ。

二つ目は、世界を見る目があったこと。清国が弱っていることから列国が権益をもとめていた時代。日本が最も恐れたのはロシアのアジア南下政策だった。樺太から朝鮮半島、北海道も視野にいれて凍らない港を確保するためにロシアが動いていたのが明治になるかならないかの時代だ。日清戦争も日韓併合もロシアの先を制するがための当時の地政学的な動きだ。ロシアと戦って勝った国なんかないという常識をくつがえすためには、海軍をもって制するしかないと権兵衛は判断する。戦争を起こすというのではなく、攻め込まれたときにいかに国を守るかという視点で建艦をはかった。ただ建艦するのではなく、造船業を起こし、付随する産業を起こし、人を育て、国の近代化をもって制海権を築き上げた。また、英国と同盟を結び対ロシア戦線を確固たるものにする。自分は若輩でしかないが、大物実力者である山県有朋に滔々と自論を述べて認めさせたのだ。

前書きのところを読むと、千早氏は山本権兵衛をみる三つのリーダーの条件をあげていた。
「遠くを見る力」
権兵衛はロシアとの戦いは必至であると長期的な視点から考え、そのために何が必要かを冷静に判断した。
「自分の考えを伝える言葉の力」
言葉の力を備えるには、人を動かす理念がなければならない。大義ともいえる。同時に、そのことがどうしても必要であるという信念と熱情がなければならない。
「評判の悪さに耐える力」
悪い評判は二つある。ひとつは、甘んじて受けてはならない評判で、「ずるい」「軽薄」「信念がない」などである。甘んじて受けてもいいという悪い評判は、「頑固」「一徹」「強引」「冷たい」である。リストラをあえて行うことができなければならない実行力である。

私の視点には三つ目の「悪い評判」がなかったのであえて補足する。
著者の千早氏は、山本五十六連合艦隊司令長官の「あまりに人間的であった弱点」を指摘している。山本五十六の失敗は、ミッドウェイ海戦時に某参謀を切らなかったことであると千早氏はいう。この某参謀は黒島参謀のこと。真珠湾攻撃時には緻密な計画をたてて成功したと言われているが、そのあとのことを考えていない。ミッドウェイ海戦は、行き足にたよった甘い計画だった。山本五十六はそのことに気付いていたはずであるが、情に流される。実は同じように情に流されて人事や作戦を動かさなかったことが他にもある。それが命取りになった。権兵衛は、大リストラを行うことで組織を生まれかえらせた。この違いが経営者的なセンスである。

権兵衛という名前は「ごんべがたねまきゃからすがほじくる」というように百姓の代表的な名前である。それは当時とて同じ。盛武というもともとの名があった。権兵衛は子供の時のからの俗称で、暴れん坊だったので「それ権兵衛がきた」と言って皆が逃げたのだそうだ。海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に入る時、その名を書いて本名にした。出世とともに偉そうな名前に変えていくのが当たり前の時代なのに、あえてそれをしなかった。頑固の片鱗である。

若い時に妻帯しているが、夫人は新潟県の生まれの十代の品川遊女だったという。写真を見るとなかなかの美人である。身請けしたのだと思われるが、権兵衛はすでに海軍の士官だったので相当まわりから奇異な目で見られた。しかし、恥じることなく大勢の前でも、靴をそろえてやるなど夫人に対して西欧流のレディファーストを貫いている。それどころか、結婚に際し、夫人に対して自分が守るべきことを誓約書として書いて渡している。
礼儀を正うし信義を重んじ質素を旨とすることを目的とすべき事
夫婦むつまじく生涯たがいに不和を生ぜざる事
夫婦たるの義務をやぶるにあらざればいかなる事実あるも決して離縁許すべからず
家事の整頓はすべて妻の責に任ず
一夫一婦は国法の定むる処なれば誓って之に背かざること
家財はもって妻子を養育するの余沢なれば妻の外他より口を入るるを許さず
一家に属する事はすべて妻の責任にまかす
夫人は字が苦手だったらしく、わかりやすいようにルビをつけて書いている。しかも、誓約書は夫人が亡くなったときに手文庫から出てきたという。夫人だけに気持ちを伝えたかったのだ。そのとおりに、死ぬまで夫人のみを愛しつづけた。

豪傑のような顔と振舞いであるが、酒もタバコもやらず、早寝早起きで宴席も出ず、寝具の上げ下ろしや部屋の掃除も自分で行い、靴下や衣服のほころびも自分でやっていた。少しくらい家事をやっては、偉そうにブツブツ文句言う私とはえらい違いだ。

海軍では士官が下士官を叱るのに鉄拳が当たり前、下士官は兵を鉄拳でしごく、先輩兵は若輩兵を鉄拳でしごくというように連鎖していき、陰湿凄惨になっていく。権兵衛が砲艦「浅間」の中尉になったとき、「浅間」ではこの悪習をたつことに成功している。のちには、士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度も作っている。コワモテであるが、人権意識が強く、曲がったことが大嫌いなのだ。そのため、臆せず上官に正論を述べ、相手をその論のとりこにしてしまうという才能をもっていた。相手を論破する人間は時折いるが、自分の論の信奉者にしてしまうような才能を持つ人はなかなかいない。

ロシアと戦争を決断しなければならない時、海軍大臣だった権兵衛の官邸に大山巌満州軍総司令官が訪ねている。その目的は、「戦争の収め方」であった。戦争を始める前にこのようなやりとりをしていることに驚く。相談する大山も、その相談に答える山本権兵衛もえらいもんだ。

権兵衛の言葉は以下のように残されている。
「講和をどうして結ぶかは、開戦のことと同じく国家の大事であることは言うまでもない。その決定は全く大権に属することであるが、その時期をつかむというようなことは、国務大臣として輔弼の責任にある者が片時もゆるがせにしてはならないことの一つである。私は国務大臣として、常に戦局の進展と彼我の情況に留意して、講和の時期を見逃すことのないように努力する決心である。そしてその時機がきたならば、適当の手段をとることにいささかも躊躇せず、一身の評判などは一切意に介することではない。・・・・・」
太平洋戦争開戦時にはこのことをわかっている国務大臣はいなかった。そして、このことをわかっていた山本五十六聯合艦隊司令長官は、「戦争はやめ時が難しい」と述べながら、その時期を情に流されて逸してしまい、戦死する。

権兵衛の身の引き方も権兵衛らしい。シーメンス事件という国家を揺るがす海軍汚職事件が起きる。国中が大騒ぎになったとき、直接自分が関わってはいなかったが、海軍全体の責任を負う形で首相の座を降りる。いっさい弁明をしなかったため、その関係をかえって疑われることになったが、そのまま身を引き、その後は表舞台に出ることがなかった。