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杉田庄一物語その36 第五部「最前線基地ブイン」ヘンダーソン基地艦砲射撃、六空ブイン進出

 十月十三日、米軍の増援部隊がガダルカナル島に着く。その夜、第三戦隊の戦艦「金剛」、「榛名」を主力とする第二次挺身攻撃隊がガダルカナル島のヘンダーソン飛行場と滑走路を艦砲射撃し、駐機していた航空機に対して徹底的なダメージを与えた(飛行可能一機のみ)。多くの米軍機が破壊され、燃料庫も火災を起こし、第一飛行場の滑走路は徹甲弾で穴が開いて使用不能となった。この後米軍は極端な燃料不足に陥ることになる。

 さらに、翌十四日にはラバウルの基地航空部隊による空襲を行い、続いて十四日夜には重巡洋艦「鳥海」、「衣笠」が艦砲射撃で追い打ちをかけた。しかし、この攻撃の前に米軍は戦闘機用の第二飛行場を完成させており、完全に機能停止とまではいかなかった。

 この背景には、日本軍航空機の激しい消耗があった。ガダルカナル島への増援物資輸送は日米とも困難な状況にあり、鍵を握るのは制空権確保だった。制空権をめぐる航空戦は日米消耗戦となっていたのだが、時間は米軍に味方する。米本土では航空機生産が最優先で動いている。もちろん日本でも全力で航空機生産にあたっていたが、国力が違いすぎる。かつて山本の懸念していた工業生産力の差が現実問題として目の前に現れたのである。

 第三戦隊司令官栗田健男中将は当初この作戦に反対していたが、山本が「自分が大和で出て指揮を執る」とまで言い出したため、それならばと引き受けたいきさつがあった。作戦は成功をみる。米軍は戦力をいっきに失い「十月の危機」と呼ぶ状態に陥っていく。

 十月十三日はまた六空がブカからブインに進出する予定日であった。七時十五分、ブカ飛行場中央路の東側に防空壕が新設されていたが、そのわきで搭乗員がそれぞれ愛機に搭乗、エンジンを始動し、にぎりめしをほおばっていた。

 晴れた空、高度約四〜五千メートル付近を大型機が近づいてきた。米軍のB17爆撃機六機だった。島川一飛は、「チョークはずせ」と整備員に命ずるが、機首がつんのめりそうになって動かない。本来、機付き整備員であるはずが、まだ整備員不足のため順に他機のエンジン始動に回っていたのだ。離陸をあきらめ、ジャングルに飛び込んで身を伏せるとすぐに投下された爆弾音がヒュルヒュルと近づいてきた。軸線があっている。爆発音とともに出発準備をしていた零戦数機が地上破壊された。

 また、防空壕わきに落ちた大型爆弾によって壕が土に埋もれた。平井飛曹長と通信長佐々木大尉が生き埋めになっていた。他にも二名の搭乗員が下半身まで埋まり、重傷を負った。整備分隊士の白方整曹長も零戦と共に爆死した。滑走路は穴が開き、零戦数機が破壊された。一直の星野浩一三飛曹、中野智弌一飛、山根亀次二飛がすぐに追いかけ攻撃を行うが逆に被弾し帰着している。

 七時五十分にもB17爆撃機五機が現れる。上空哨戒を行っていた松本早苗二飛曹、福田博三飛曹長、人見喜十二飛がすぐに追いかけ攻撃するが逃げられている。

 十一時にも一機のB17爆撃機が来襲し二直の三機が発進しているが戦果はなかった。これからの厳しい戦いを暗示するようなブイン進出になってしまった。

 ブイン基地は、ブーゲンビル島の東端にあり、ガダルカナル島まで三百二十浬(約六百キロメートル)となり航続距離の短い二号戦でも十分にガダルカナル島周辺まで往復できる余裕ができた。当初九月中に完成する予定だったが、悪天候が続き作業がはかどらなかった上、土質が悪くて整備に時間がかかった。前述したようにすでに八日には角田が二空の零戦隊を率いて転出していたし、小福田も先行して入っていた。

 この日(十月十三日)の午後、六空の零戦隊はようやく進出することになった。二空が夜間着陸した時は滑走路もできたてで問題なく着陸できたが、その後の数日の雨でぬかるみと化していた。さらに雨が穴を広くしてでこぼこになってしまっていた。

 ブカ基地から田上中尉指揮の下で十五機の零戦がブイン基地に降りた。別動で三機が移動している。先行した小福田の機も含めるとこの時点で合わせて十九機しか六空の稼働機はなかった。当初は六十機あったのにもはや三分の一しか残っていなかった。

 着陸の際に、やはり事故が発生した。ぬかるんでいたところに急遽鉄板を敷き詰めたため、つぎはぎだらけの滑走路になっていた。この継ぎ目に脚をひっかけてひっくり返る機が続出した。「あっ、またやった」「今度はうまくいったぞ」・・・一機おりるたびに設営隊員たちは声をあげて見守っていたが、事故に巻き込まれて怪我人も出た。この日の着陸でさらに貴重な七機が失われた。まだまだ搭乗員の技量を磨かねばならなかった。

 島川一飛の「ブインについての語り」が『零戦燃ゆ2』(柳田邦男、文藝春秋)に記されている。
「ブイン飛行場には、幅十メートル、長さ八百メートルの鉄板を敷いた滑走路が一本あったのですが、若手のパイロットは、これに満足に着陸することもできなかったのです。
 若手が十人いれば、九人までがおしゃかにしてしまった例もありました。
 実は、この滑走路は、母艦航空隊のパイロットにも鬼門になっていたのです。母艦航空隊員は、基地航空部隊員よりも優れた技量を持っていましたが、フックを使えない着陸となると、さほど上手ではありませんでした。横に滑ってはみ出したり、つんのめって尾部を天に上げて止まっていました。
『母艦屋』も技量レベルの低いパイロットが多くなっていたのだろうと思います。
 また、零戦そのものも、その当時のものは、ブレーキ装置がお粗末でした。少し強く引くと、前につんのめるし、引き方が少し甘いと、オーバーランするという具合でした。効き方が不安定なので、着地後のブレーキ操作には、神経を使ったものです」
 また、当時搭乗員たちが歌っていた音頭も同書に紹介されている。
「ブインよいとこ一度はおいで
 狭い滑走路に着陸すれば
 外にはみ出し飛行機壊し
 あとでブンチョ(分隊長)に整列食らい
 あまた士官の居る前で
 おなじ文句を二度また三度
 飛行機壊すな 壊すな飛行機 オーイサネ」

 それにしても、戦闘ではなく離着陸で壊してしまう零戦の多いのに士官たち、とりわけ小福田飛行隊長の頭を悩ましていた。若手たちは、小福田に日頃から「飛行機壊すな」と口うるさく言われていた。これより少しのちに、杉田はB17爆撃機に零戦の翼をぶつけて初撃墜を行うのだが、撃墜の報告よりも「零戦を壊してしまいました」と小福田におそるおそる申し出ることにつながる。

 さて翌々日には、第二陣や二空の零戦隊や艦爆隊が進出し作戦に加わることになった。ブインにはジャングルの一部を切り開いたところに設営した天幕による宿舎しかない。仮設ベッドを置いただけの宿舎は湿気が強く、体調を崩す者もでた。殺風景で最低限の生活ができるキャンプ場のような基地だった。しかし、多くの飛行機や搭乗員が集まってきて一気に基地は活気をおびてきた。十月十三日からの船団護衛任務は十月下旬まで続くことになる。

<参考>

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