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杉田庄一物語 その65 第六部「護衛」 ブイン異変

 話をもどして、柳飛長の証言(二誌から抜粋)で撃墜時の状況を追ってみる。

 「発見がおくれたのは、敵機がまさか下からくるとは思っていなかったからです。われわれの目は、常に水平線上を監視するように訓練されていましたからね。あまり足元は見ません。まったく不意を突かれたわけです。敵機は迷彩をほどこしているし、それがジャングルのまだらな色と重なって見にくかったことは確かです。彼らが西方の海側から直角に侵入してきたことも、われわれの意表を突く戦法でした。」・・・『戦争の素顔 一兵卒から提督まで』、(佐藤和正、光人社)

 「低く飛んで来たP38は、われわれの下を潜って次々と一式陸攻に斜め後方から殺到しようとする。直援機は、それらのP38を先頭から各個に撃破しようと迎え撃った。それ以外に長官機を守る方法がないのだ。六機では、あまりにも少なすぎる。
 P38はわき目もふらず直進し、一式陸攻の後方でグルリと向きを変えると射擊を浴びせた。 零戦は一機ずつそれに襲いかかり、一瞬、激しい攻防が展開された。
 やっと一機を追い払い、機首を立て直すと、すぐ次のP38が長官機目がけて襲いかかる。そのため、ただ一機を追いかけているわけにはいかない。ましてや追撃戦をするには高度が低すぎる。思い切って急旋回上昇し、食い下がるP38に変則的な上昇射撃をするというあわただしさ。僚機がはるか彼方で巴戦をしているのが、瞬問だが、わたしの目をよぎった。
 —と、そのとき、ふと長官機の方を見たわたしは、ハッとした。すでに長官機は、片方のエンジンから思煙を吐いているのだ。
 わたしは機首を立て直してP38に襲いかかって行ったが、胸は暗く動揺した。
 先頭のP38の群れを撃退している間に、そのP38の銃弾が長官機のエンジンに命中し、彼らはすでに目的の大半を果たしてしまったのだ。そのP38は、もう帰途についている。来たときと同じように、わき目もふらずに、もと来た道を引き返して行くのだ。
 長官機は黒煙を吐いている。見ると、少し離れて、参謀長以下が分乗している二番機も、 火を吐いているではないか。
 わたしは、呆然としてそれを見た。
 あまりにも鮮やかな、P38の迎撃だった。」・・・『伝承零戦空戦記2』(秋本実編、光人社)

 柳谷飛長の証言から、零戦隊の注意は上空の方に向いていて、下方のジャングルにP38が待ち伏せしていることに全く気づいていなかったことがわかる。二小隊六機しかいないので陸攻二機の後上方に位置し、目をこらして上空監視をのみしていたのだ。少ない人数での護衛にはどうしてもスキができる。攻撃隊(ランフィア隊)が行動を起こしたことに気づいたときには、もはや手遅れだった。高度五十メートルまで降りる前に一式陸攻二機とも火を吐いていた。
 このあと、柳谷飛長は編隊から離れ、いったんブインの飛行場に戻って低空飛行でジャングルに向かって二十ミリと七・七ミリ機銃を掃射し、緊急事態を知らせた。その後、再び敵を追いかけ、ショートランド島方面へ向かっているP38が一機水平飛行しているのを見つけ攻撃する。P38は命中弾を受けガソリンを吹いたが炎上せず、柳谷はそのままP38を追い越してしまう。墜落するところは確認していない。
 敵機撃墜を報告しているのは柳谷だけでない。戦闘行動調書を見ると、杉田が二機、辻野上が二機(一機不確実)、日高義巳も一機撃墜、合計六機撃墜と報告されている。詳細は不明であるが、一式陸攻が墜されてから、零戦隊は死に物狂いでP38を追い回したものと思われる。米軍側の記録では多くのP38が被弾しているが、未帰還機はハイン中尉の一機だけである。

 空戦後、六機の零戦はばらばらにブイン基地に着陸した。柳谷は、このとき滑走路が砂塵を巻き上げないことに気づいたという。いつもなら巻き上がるはずの砂塵がまったくない。山本長官を出迎えるために滑走路を掃き清め、水が撒かれていたのだと柳谷は思った。
 実際は、ブインでは水の確保に困っていて、滑走路全体に水を撒くことは不可能であった。せいぜい着陸想定地点のまわりに水を撒いたのかもしれない。ただ、五八二空艦爆隊の搭乗員に指示が出て、滑走路を一列になって整備をおこなっている。おそらく到着間近な時間であろう。タイヤのパンクが起きないように滑走に散らばっている壊れた部品などを拾い集めたのだ。いつもと違って滑走路はきれいだったことは間違いない。五八二空の零戦隊は、まだこの時点で山本長官の巡視のことは知らされておらず、角田和男飛曹長はいつものように敵偵察機を追撃するため戦闘指揮所で待機していた。『修羅の翼』(角田和男、光人社)にこの日のブイン基地の動きが記載されている。
「〇五二五、櫓上の見張り員よりP38一機、高度六千西南方の報告があり、ただちに待機の乗用車にとび乗り、列線に走った。
 指揮所裏の搭乗員幕舎より駆け出した者が三、四人車の「ドア」にぶら下がる。これは毎朝の行事で、とても追い付けないのは分かっているが、頭の上にいられてはわずらわしいし、いつ爆撃、銃撃を受けないとも限らないので、すでに発動されている飛行機に跳び乗り、一応全速力で追跡した。
 しかし、高空を飛行機雲を引いて飛ぶP38は、たちまち視界外に去ってしまった。三十分くらいして着陸、司令に報告を済ませ、指揮所に上がり再び待機している。
 〇六二〇、再び見張りよりP38一機、高度六千の大声。再び列線に走りながら、『珍しいな敵さん何を考えているんだろう』と、 ふと思った。連日定期便は一機、たまには二機編隊のこともあったが、一回に限られていたためである。今回もまた。、前回と同様、三十分ばかりで上空より追い払っただけで、たいして気にせず例の通り視界外に見失った旨、報告して指揮所で、休憩していた。
 五八二空飛行機隊戦闘行動調書によれば、〇七四五(私は〇七〇〇頃と思う) 三度目の見張りよりの声、『敵P38六機◯◯度(南西方)、高度六千こちらに進む』」

 角田の記録によれば、山本長官襲撃前に二度、ブイン上空にP38が一機ずつ現れている。スクランブル待機している零戦を飛び立たせ、戻ったところを再び飛び立たせることを繰り返し、三度目に本番、それも零戦隊をひきつけるための制空隊という陽動作戦と考えられる。

「私はただちに指揮所より駆け降りながら、指示の方向を振り仰いだ。六機のP38は編隊というより相当の開距離でおそらく全速のため編隊が乱れたと思われる形のまま飛行場上空にさしかかるところだった。 待機の乗用車はドアにぶら下がっても五、六人しか乗れない。このときは走った搭乗員もあり、十機近くの列機がついてきた。
 しかし、やはり頭上六千メートルに敵を見てから離陸したのでは追いつけない。これは東方に逃してしまい、しばらく飛行場上空を哨戒し、ほかに機影を認めないため着陸した。例によって報告を終え、椅子にかけた」


 このときのP38が長官襲撃の作戦部隊であった。追撃に出た零戦隊が基地に戻って三十分ほどたったところに、一機の零戦が海岸寄りから二十〜三十メートルの高度で滑走路上空を全機銃を撃ちながら高速で飛び去った。そのあと左旋回をして滑走路に緊急着陸し、飛び降りた搭乗員が指揮所まで駆けてきて叫んだ。「長官機が空戦中です。応援たのみます」、言葉は丁寧であるが怒鳴りつけるように言って、すぐにまた零戦に乗って飛び上がっていった。
 角田の記憶ではこの搭乗員は第二小隊長の日高上飛曹であった。柳谷も同じようにブイン飛行場を低空飛行と全機銃掃射で危険を知らせており、柳谷も日高も同じ行動をとったのか、あるいは角田が思い違いをしたのかもしれない。
 五八二空の零戦四機がすぐに後を追って飛び立った。角田はすでに空戦は終わっているものと判断し、指揮所に情報を確かめに行った。こんな朝早くから、しかもP38が出没している前線になんで長官機が飛んで来られたのか。飛行分隊士である角田は、大事な指令を見落としていたのではないかと、重い気持ちで電報綴りを確かめた。電報の見落としがあれば責任重大である。角田の意図を察した司令は。「分隊士、電報はないよ」と声をかけた。続いて「古い暗号書を使ったのじゃあないかな」
と、司令が独り言のように呟いたことを角田はしっかり覚えている。

 前述したように長官視察の連絡は、暗号電報ではなく十七日にラバウルで行われた「い」号作戦研究会に出席した折に、開封日時指定の封書で五八二空司令山本栄中佐に渡されている。封書は、庶務主任の守屋清主計中尉が預かり、指定時間に開封し山本司令に渡された。山本司令からこの視察計画を伝えられた飛行隊長の進藤大尉は「長官がわざわざこんなところまで来なくても、俺たちは頑張ってやってるのになあ」と思っている。

 話を柳谷の証言にもどす。六機のうち、岡崎二飛曹は長官遭難の報を告げるためにバラレに降りていた。ショートランド付近まで敵を追っていたので、柳谷がブイン基地に直陸したのは最後だった。零戦から降りると、基地に駐屯している陸海軍の司令や指揮官たちは正装で飛行場にいた。すでに帰着している搭乗員たちによって長官遭難の報告を受けていたのにもかかわらず、柳谷にも「本当に、山本長官は戦死されたのか」という問いかけがそのときあった。司令たちは信じられないという思いで、新しい情報を求めていたのだろう。柳谷は、逡巡したのちに「あれほどの大火災を起こしながらの不時着ですから、あるいは長官はご無事ではないかも知れません。しかし、自分はそれを確認したわけではありませんから、断言することはできません」と、言葉丁寧に婉曲な言い方で答えたという。

 ブイン基地では、重傷の宇垣と北村が航空隊の防空壕にある救護所で手当を受けていた。山本長官の生死はまだわからず、宇垣は顔中を包帯でまかれながらも長官を探しに行けと言い続けていた。 ブイン基地からは追撃の零戦が飛び立っていたがむなしく帰還している。五八二空飛行隊長の進藤大尉が墜落地点の確認に飛んだ。ジャングルの中で黒煙を上げている地点を確認してきている。一度着陸した森崎予備中尉も一機を連れて現場確認のために飛びたった。森崎の顔は焦燥しきっていた。
 現場が特定されると佐世保第六特別陸戦隊による九名の捜索隊が組織され、午前中からジャングルに入った。ブーゲンビル島の第十七軍所属部隊も墜落を見ていた。翌十九日朝に、墜落機が山本長官の乗っていた陸攻ということが判り、捜索隊が出された。

 最初に見つけたのは近くにいた陸軍の道路設営隊で、指揮官は濱砂少尉であった。現地の住民に案内されて陸攻墜落現場に到着した。その後、連絡を受けた海軍の陸戦隊も合流した。山本長官の遺体は、機体から少し離れた場所に放り出された座席クッションの上に横たわっていた。左胸に血の流れた弾創があった。かたわらに軍医長の高田少将の遺体があった。あとの九人は焼け焦げた陸攻の中で折り重なっていた。

 十一人の遺体をジャングルから運び出し、ブインに戻ったのは二十日の夕刻である。一晩安置して、通夜が行われ二十一日の朝に荼毘に付された。
 話を十八日の午前に戻す。六機の零戦は各自詳細な報告を済ませた後、ラバウルに戻ることになった。十二時にブイン上空で合流し、十三時五十分にラバウルに帰着している。ラバウル上空まで来ると、いつもと同じように港の岸壁で輸送船から軍需物資の陸揚げをしている様子が見えた。いつもと同じ日常の様子が見えることがなおさらにこれまでとは違う状況の重苦しさを六人の搭乗員に与えた。「身を挺して守れなかった」という思いが六人共通の思いだった。

 着陸して、六人は指揮所前の杉本司令と宮野飛行隊長に報告に行く。すでに長官遭難の報告は入っており、森崎予備中尉の言葉に杉本と宮野はうなずくだけであった。司令は、「ご苦労」と普通どおりの声で行った。そのあと、
「このことは、上司から発表があるまでは、絶対他言してはならぬ。いま、このことが皆に知れては、全軍、いや全国民の士気に影響するところ甚大なものがある。誓って他言するな」
と、厳しく言い渡した。日本軍の最高指揮官である山本長官が戦死したとなると大きな影響を与えることになる。とりわけ山本長官は全国民に愛されている英雄だった。山本長官の死は徹底的に秘匿されることになった。

 緘口令を言い渡されたが、戦友たちはそんなことを知らずに、「オイ、どうだった」と無邪気に声をかけてくる。日常的な会話であったが、そんな言葉も刃となっていた。「無事にブインまでいってきたよ」と柳谷は内心の動揺を隠しながら答えるのが精一杯だった。直掩隊の六人の冴えない言動に、変だなと思った搭乗員は多かったが、あえて聞き出す者はいなかった。
 その夜、大原は杉田から長官遭難の話を聞いている。杉田は大原、中村、坂野、渡辺清三郎、中澤政一の十五志同期六人と共に、占領前に英国人が住んでいた洋館の同じ部屋で寝起きしていた。夜になってもしばらくは暑さが残り、すぐには寝つかれない。そこで、しばらくは外で涼んで熱をとってから部屋に入るならわしだった。この夜、部屋に入る前に杉田は思いつめた表情で大原に話しかけた。
「大原、黙ってろよ。実は、長官がやられた。ブインに着くちょっと前、五〜六分のところでP38の奇襲をくってやられたんだ」
 大原も何かあったなとうすうす感じていたが、まさか長官がという思いで愕然とした。
「オレたちがブインに降りたら、基地では長官が視察に来られるというので、戦闘機は全機列線に並べて到着を待っていた。だから上空哨戒も出していなかったんだ。そこへ戦闘機がバラバラに着陸し、指揮官機に続いて全員の報告を聞いたものだから、たいへんなことになった。報告のあと森崎予備中尉ともう一機が状況偵察に行き、一式陸攻一機はジャングルで煙を出しており、もう一機は海岸に着水しているのが確認された。それで、着剣付き警護の見守る中で、緘口令を言い渡されたんだ。」
 杉田は、大原に打ち明けたことで気が晴れたのか、話の後はいつもの杉田にもどっていた。山本長官の戦死したこの戦闘は、「海軍甲事件」と名付けられた。
 厳重な緘口令がしかれたにもかかわらず、山本長官が戻ってこなかったことで搭乗員や基地隊員たちもそれとなく勘づいていた。車輌隊車庫員の相川兵曹は、いつもと違って口をきかない搭乗員たちの様子に大変なことが起こったのではと直感した。数日後、黒塗りのパッカードから白布に包まれた箱をもった将官を見た時、相川たちが飼っているペットの子猿とわたむれていた山本長官の姿を思い浮かべ、胸を締め付けられる思いになった。

 輸送機で東飛行場に着いた白布の骨箱を見て勘づいた基地隊員たちもいる。草鹿中将がその骨箱を白扇であおいでいたのを見たとか内地への手紙が禁止されたとか、かなり上級者が戦死したことはまちがいないとラバウル基地ではさまざまな憶測が飛び交っていた。直衛を行った搭乗員たちは、そんな空気の中でますます悔悟の念を強く感ずるようになっていった。
 このとき米軍側でもハルゼー提督がガダルカナル島基地に対して厳しい緘口令を出していた。「ニミッツ司令部の命により、この作戦は極秘として内容を報道機関にさとられないようにすること。暗号が解読されていることを、日本海軍に気づかれないようにすること」という指示だった。ガダルカナル島基地の最高指揮官ミッチェル提督は、その後数週間にわたって毎日、戦闘機の一群をブインやバラレ方面に送り続けた。山本長官との遭遇が偶然であったと思わせるためである。しかし、パイロットであるトーマス・ランフィア中尉とある新聞記者によって山本撃墜のことが漏らされ、ハルゼーが大激怒するという事件となった。また戦後になって、山本撃墜を主張するランフィアとレックス・バーバー中尉の意見がぶつかり、長く解決しなかった。

<参考>



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