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杉田庄一ノート55昭和18年9月「内地帰還」

 昭和18年8月26日、杉田はブイン基地上空での空戦で乗機が被弾炎上し、落下傘降下によって生還した。当日の戦闘行動調書には軽傷と記されているが、実際は大火傷だった。同じ空戦時に渡辺秀夫飛曹長も被弾し自力で基地に戻ったが、炸裂弾によって右顔面損傷という状態で、これは重症と記されている。

 杉田の履歴原票には次のように記されている。
 「9月3日 第八海軍病院入院(第一種症)(戦傷)顔面前頸部前胸部左右上肢膝蓋部熱傷。」

 ラバウルに設置された第八海軍病院は、戦争前まではオーストラリア人用のナマヌラ病院で、市街地から少し離れた丘の上にあった。横須賀海軍病院から医師や看護婦が送られ、手術や入院施設も整備されていた。ここでとりあえずの手術と治療を行なっている。

 「9月13日 特設病院船『天應丸』へ転院」

 第八海軍病院入院10日後に病院船によって内地へ帰されることになる。履歴書では「転院」「舞鶴海兵団」(入院中ノ儘)という処置になっている。病院船に乗せられた時点で、舞鶴海兵団に転勤ということだ。
 杉田の火傷は顔と手がひどく、半年後に復帰して前線にもどったとき、はじめて杉田を見たとき笠井智一氏(のちに杉田の列機になる)は「ずんぐり中背で顔はやけどの跡も生々しく、手を見たら左手は包帯をして、右手は白く(青く)なっている」と印象を書いている。手のやけどは癒着をしており、手術で切り離したという。
 「天應丸」という病院船は、もともとはオランダの客船であったが太平洋戦争開始時に病院船に改修された。昭和17年のスラバヤ沖海戦で日本軍に接収され、そのまま日本海軍の病院船になったものである。オランダ船籍のときの名前「オプテンオール」をもじって「天應」と名付けたのだが、「天皇」に似ているということでのちに「第二氷川丸」と改称している。戦後まで生き延びたが、戦後賠償問題でトラブルが起きることが予想され、暗黙に自沈させられた。結局は賠償問題でのトラブルが起き、解決まで長い期間がかかった。

 「10月13日 舞鶴海軍病院へ転院」

 一月かかって内地へ戻り、そのまま舞鶴海軍病院に入院する。履歴書には10月22日に舞鶴海軍病院による具体的な診断が書かれている。これには、「顔面前頸部前胸部左右上肢右膝蓋部熱傷」とあり、「右」が加えられたことから、右側から火炎が上がったと思われる。

「11月1日 任海軍一等飛行兵曹」
「11月2日 退院」

 三週間足らずで退院しているが、その1日前に一等飛行兵曹(一飛曹)に昇任した。このあと、12月7日に徳島航空隊(大村航空隊派遣)まで一時休暇となり、故郷新潟に戻っている。


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