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杉田庄一物語 その58(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」 ラバウルでの二〇四空

 この頃の隊の様子が「ラバウル空戦記」(第二〇四海軍航空隊編、光人社)で紹介されている。

「飛行場で待機しているとき、よくトランプやオイチョカブをやった。いったん出動すれば死が待っているかもしれない。いやなひとときのはずだが、タバコをかけたバクチに彼らは打ち興じた。中には大前田英五郎とか、清水次郎長とか、有名な親分衆の名前を付けて、よろこんでいるものもいた。出動ともなれば、『帰ってきたら続きをやろう』と言い合って出て行くが、そのまま帰ってこない戦友もあった。飛行場から宿舎に帰るときはトラックの荷台だが、トラック上ではいつでも大合唱がはじまる。今日も生きのびたという喜びが、彼らをよりいっそう解放感にかり立てた。」

ラバウル空戦記」(第二〇四海軍航空隊編、光人社)


 彼らが育った時代、ラジオ放送が唯一の娯楽であった。昭和十六年でのラジオの世帯普及率はほぼ五十パーセントにのぼっていて、特に大人気だったのが浪曲である。二代目玉川勝太郎の「天保水滸伝」(大前田英五郎が出てくる)や二代目広沢虎造の「清水次郎長伝」などの名シーンはたいがいの若者はそらんじていた。広沢虎造の「国定忠治」の中には「ニッコリ笑って人を切る、鬼よりこわい国定忠治」という名台詞がある。のちに杉田が三四三空時代に、口ぐせにする「ニッコリ笑って必ず墜とす」もこのセリフからきている。

 夜になると若手の搭乗員たちは、酒盛りをしたり脱柵をして慰安所に遊びにいったりして束の間の青春を謳歌していた。同じく「ラバウル空戦記」(第二〇四海軍航空隊編、光人社)から抜粋する。

「今日も生きのびたという喜びが、彼らをよりいっそう解放感にかり立てた。
 夜は夜で、夕食後は宿舎で酒盛りだ。ブインはテントばかりの粗末なものだったが、ラバウルはもともとイギリス人が使っていた高床式のりっぱな住宅の個室があてがわれ、五人、六人と集まってはその日の戦闘の話、いなかの話、食い物の話、そして彼女の話と話題はつきない。
 そのうち『今晩、行こうか』ということになる。お目当ては慰安所、もちろん正式の外出許可などないから無断で脱柵。といって宿舎の外に柵はないし、さいわい慰安所はそんなに遠くない。どういうわけか二〇四空の搭乗員連中は要領がよく、それぞれちゃんと彼女をつくってあった。事前にうまく連絡がとれていれば、彼女たちは時間をあけて待っていてくれたし、戦闘機の発着を見ていれば、今晩来てくれるかどうか、予感でわかったらしい。男女の仲は、たとえ明日をもしれぬ戦闘機パイロットと、さすらいの慰安婦の間であっても通じ合えるものがあったのだ。
 数人でドカドカと部屋に上がり込むと、彼女はすでにキレイに化粧して待っていた。彼女の仲間たちも二、三人集まって来て、落下傘の袋に入れてきたビールや缶詰類をさかなに、若い者同士の団らんがはじまる。あまり遅くなるとやばいので、午後十時ごろにはさっと引き揚げる。途中警戒の巡邏にぶつかると、士官の襟章を付けてごまかしてしまう。みんな二十歳前後、はち切れんばかりの若さのままに、奔放に生きた毎日であった。」

「ラバウル空戦記」(第二〇四海軍航空隊編、光人社)

 慰安所では遠慮せずに酒が飲めた。搭乗員たちは航空隊の中心、花形スターなので、ある程度わがままが許されて脱柵での夜遊びも黙認されていたらしいが、翌日には四時、五時に出撃しなければならない日もあり、羽目をはずして大騒ぎというのはなかった。相楽など整備員や基地員たちはそういうわけにはいかない。

 戦闘機隊の出発は早朝が多い。前日、被弾したり故障をおこしたりした零戦の整備はどうしても夜中までとなる。日中は日中で敵襲がある中での通常業務が待っていた。烹炊員の河原田主計科兵曹も「ラバウル空戦記」(第二〇四海軍航空隊編、光人社)の中に次のような記録を残している。

「不安と期待をもってラバウルの二〇四空に入った。それからというもの、先輩に追い回されての烹炊作業、物資受領のための軍需部行き、風呂当番に食事当番、洗濯(自分のではない)などに明けくれる毎日の生活だった。しかも、海軍独特の『総員整列』という制裁が、ここ第一線に来ても昼夜を問わず行われた。バッタでなぐられ、寝床に入ってからも激痛の走る尻のため、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。」

ラバウル空戦記」(第二〇四海軍航空隊編、光人社)



 命をかけて戦闘に明け暮れる搭乗員がかなり優遇されていたのに対し、兵種によっては海軍の閉鎖的な日常があった。搭乗員が優遇されていたエピソードに長髪もある。

 海軍士官は長髪が許されていたが、もちろん下士官兵はそうではなかった。坊主頭が原則である。しかし、自分達が軍を担っているという自負からか、あるいは飛行帽が隠してくれるからか、搭乗員の多くが髪の毛を伸ばしていた。それも直径一センチメートルくらい髪の毛だけを伸ばすことが流行っていた。「蜘蛛の糸」としてこの世にひっぱりあげてもらうという縁起担ぎだったという。戦闘の続く中、不精でそのまま伸ばしている者もいた。

<引用・参照>



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