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杉田庄一物語 その68(修正版) 第七部「搭乗員の墓場」 嵐の前の静けさ

 昭和十八年五月一日、下士官兵の定期進級日である。杉田、大原、中村、中澤、渡辺清三郎などの十五志(十五年志願兵)や柳谷、橋本など十五徴(十五年徴兵)の飛長たちは二飛曹の下士官になった。

 定期進級にともなう搭乗員の異動だけでなく、部隊への補充も行われベテラン搭乗員が異動してきた。それよりも大きな変化がラバウルの基地航空部隊全体にあった。第一基地航空部隊が前年のソロモン空域の戦いで戦力を消耗し内地に帰されていたのだが、二十五航戦の第五空襲部隊として再建しラバウルへ再進出させたのだ。二〇四空の属す第六空襲部隊と合わせて態勢を立て直し、ガダルカナル島、東部ニューギニア方面への積極的な航空作戦を展開しようという意図だった。

 五月十日に二十五航戦第五空襲部隊の二五一空と七〇二空が数日前にラバウル東飛行場に進出する。戦闘機隊である二五一空は小園安名中佐を司令に、副長兼飛行長が中島正少佐、飛行隊長は向井一郎大尉、戦闘機分隊長には木村章大尉、大野竹好中尉、鴛淵孝中尉、大宅秀平中尉という編成だった。下士官には西澤廣義上飛曹など初期のソロモン空戦を経験している者もいたが、若い搭乗員も多かった。零戦五十八機のほかに陸上偵察機(陸偵)五機と夜間戦闘機(月光)三機が配備されていた。また、偵察隊である第二六航戦第六空襲部隊の一五一空も進出している。四月十五日に開隊したばかりで陸軍から調達した百式司偵を装備していた。

 五月上旬での二〇四空の出撃回数はやや減ったものの、ブカやブイン方面への出撃が続いた。四月下旬から五月上旬にかけて連合国軍が攻勢をかけてくることはなく、空戦はあまり行われていない。米軍も、山本長官襲撃のあとひっそりと騒ぎ立てないようにしていたのかもしれない。ただ、ガダルカナル島、東部ニューギニア方面での連合国軍の行動が活発化していることは、百式司偵や二式艦上偵察機(二式艦偵)による偵察や無線の解読などから判明しており、嵐の前の静けさだった。

 『ニミッツの太平洋海戦史』(ニミッツ/ポーター、実松譲/冨永謙吾訳)によれば、このとき連合国軍は来るべき攻撃の準備に忙しかった。

 南西太平洋戦域最高司令官マッカーサーは、島伝いでニューギニアの北岸沿いに軍をすすめることを提案していた。そのため南西太平洋軍に属す第七艦隊はかなりの兵力をもつ大部隊に増強された。一方、太平洋戦域最高司令官ニミッツの南太平洋軍も海上戦と陸上戦を同時に展開するため第四三歩兵師団の訓練を急ぎ、ガダルカナル島上陸戦で疲弊した第一海兵師団、第二海兵師団にたっぷり休養を与え準備を整えていた。

 マッカーサーの率いる南西太平洋部隊とニミッツ率いる南太平洋部隊が二方面から日本軍を追い詰めていく作戦だった。両司令官には根深い対立はあったが、ガダルカナル島をめぐる攻防戦はニミッツが主導することになった。

 ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場にはすでに三つの戦闘機用滑走路があったが、爆撃機が発着可能な基地へと拡大し、四月一日から爆撃機の訓練が可能になった。当時、ガダルカナル島には各種飛行機が三百機以上あり、王立ニュージーランド空軍、米国陸海軍、海兵隊の爆撃機隊や戦闘機隊が集まっていた。寄せ集めではあったが、この隊はエア・コマンド・ソロモンズ(通称エアソルス)と称して士気が高かった。エアソルスと米陸軍第五航空部隊が協力して作戦を遂行した。豪州空軍も数個中隊が加わっていた。連合国軍航空部隊の協同目的は今後二〜三ヶ月のうちにソロモン空域の制空権を獲得することだった。

 中部ソロモン諸島の日本軍の二つの飛行場は、ガダルカナル島のヘンダーソン基地と対峙しており極めてやっかいな存在だった。これらの飛行場を無力化するため、連合国軍はルッセル諸島に地上部隊と特殊部隊シービーズを上陸させ、小艇用の基地をつくった。また、エアソルスの爆撃機専用滑走路が二つ建設された。ルッセル島上陸準備が着々と進められ、ニュージョージア及びブーゲンビル周辺海域に米軍艦艇と航空機によって機雷が敷設された。エアソルスは、昼夜を問わずムンダ及びコロンバンガラの飛行場に爆撃を加えた。

<引用・参考>



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