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杉田庄一ノート56昭和18年12月「故郷に帰る」

 舞鶴では約三週間海軍病院に入院し、両手指の癒着を切開している。その間、舞鶴五老岳砲台での軍務についていた弟を訪問している。五老岳砲台は、舞鶴港を一望できる五老岳(標高300m)山頂に築かれた海軍の砲台で、軍艦に積んでいた八九式12.7cm高角砲が設置されていた。杉田は弟に「お前は亀と同じ、気をつけろよ」と言ったという。弟は、兄の火傷をおった両手指がよく動かなかったことを記憶している。

 11月2日に海軍舞鶴病院を退院したあと、一月ほど一時休暇で新潟の故郷にもどり養生をすることになる。雪が降る前のこの季節、日本海側は連日暗い雲と強い雨混じりの季節風が吹く。ラバウルの突き抜けるような青い空と海、3000mにも達する積乱雲とは対照的なこの鈍色の海と空を見ながら杉田はどんなことを考えていたのだろうか。

 舞鶴から直江津までの北陸線はトンネルが多く、蒸気機関車で走り抜けると煤煙が客車に舞い込んできてきな臭い匂いがたちこめる。直江津駅は当時、信越線、北陸線、越後線のターミナル駅として賑わっていた。北陸線はここまでで、ここから乗り換えて一駅進み黒井から頸城鉄道の軽便に乗る。軽便は国鉄規格よりも狭い独自の線路を使った軽車両鉄道である。頸城鉄道は新黒井駅から浦川原駅までの15kmを10駅間で運行する。自動車交通のまだ発達していない時代にはこの地方の人たちの足となっていた。浦川原の小蒲生田にある杉田の生家は、終点浦川原駅から8kmほど山に入ったところになる。

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 『六機の護衛戦闘機』(高城肇、光人社)の中でも杉田の帰郷のことが描かれている。
「杉田の郷里は、直江津の一つ先の黒井駅から、頸城鉄道というお伽の国の汽車ぽっぽのように小さな、木製のガタガタ、ギシギシの汽車に乗って、その終点から山に登る。杉田は、この山道を、一歩一歩ふみしめるようにして登りながら、しきりに、ソロモンに散った五人の仲間のことが思い出されてならなかったという。
 この帰郷のさいに杉田は、父母を前にしてはじめて、あの運命の四月十八日と、それからの一部始終を、小声で物語っていたのである。そして、磯部山の中腹から、はるかな下界を俯瞰して、最後にこう呟いた。
 『日本は美しいけんのう・・・』
 杉田は、きっと故郷の山河の上に、あの荒廃たるラバウルの山河や、ブインのジャングルをなぞらえていたのかもしれない。」

 高城氏の『六機の護衛戦闘機』は創作部分がかなり入っていて、特に杉田の言葉が「〜のう」とか「〜じゃけん」という新潟県では使うことのない語尾を使っているのが気になって仕方ない(私は、この地域の小学校で3年間勤務した経験があるのでよけいに感じるのかもしれない)。しかし、杉田の郷里の山道の描写は、うなずけるものである。終点の浦川原駅から1時間ほどかなり急な坂道を一歩一歩踏み締めていくしかないのだ。木々に囲まれている道を抜けると急に展望が開ける。南向きの山の中腹、20戸ほどの集落があり、中ほどにある大きな農家が杉田の生家である。直江津駅から生家までの道程などの描写から、高城氏は現地まで足を運んで取材をされたのかなと思わせる。

 実家にいるときに、両親に山本五十六司令長官の護衛機だったことや撃墜の顛末などをそっと話している。また、卒業した中保倉国民学校(当時)で小学生を前に講話をしている。故郷で過ごすには一番厳しい時季ではあったが、つかの間の平和な時間を過ごすことができたはずだ。12月に入ってすぐに徳島航空隊(大村航空隊派遣)という辞令を受け、故郷を離れる。


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生家跡に建立された顕彰碑(上越市浦川原区小蒲生田)



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