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杉田庄一ノート43:昭和18年5月「嵐の前の静けさ?」

 山本五十六長官戦死後、4月から5月にかけてあわただしく過ぎていく中、204空では出動をするものの敵との遭遇はあまりなかった。アメリカ軍もひっそりと騒ぎ立てないようにしていたのかもしれない。しかし、ガダルカナル島の連合軍航空兵力は着々と増強されていた。その様子は、『ニミッツの太平洋海鮮史』(ニミッツ/ポーター 実松譲/冨永謙吾訳、恒文社)で知ることができる。
 「日本軍の防衛強化の速度が低下していたとき、連合軍は来るべき攻撃の準備に忙しかった。マッカーサー将軍は、一連の海上機動の跳躍によって、ニューギニアの北岸沿いに前進することを提案したので、南西太平洋部隊は小兵力の第七艦隊をかなりの兵力をもつ大部隊に増勢した。一方、南太平洋部隊は、水陸両用作戦を実施するため第四三歩兵師団を訓練中であり、その間、第一、第二海兵師団はガダルカナル作戦の困苦から休養をとり、元気の回復に努めていた。
 ヘンダ—ソン飛行場は、三つの戦闘機用滑走路とともに、完全な爆撃機基地に拡大された。その東方五マイル にあるカーニイ飛行場はヘンダーソンより大きな爆撃機基地で、一九四三年(昭和十八年)四月一日に使用できるようになった。当時、ガダルカナルには各種飛行機三〇〇機以上があり、ニュージーランド空軍、米国の陸海軍、 および海兵隊の爆撃機と戦闘機が互いに協同作戦を実施した。ソロモン諸島航空部隊(エア•コマンド•ソロモンズ)——エアソルスと略称——として知られ、異分子の集まりではあるが緊密に統合されたこの部隊にとって、 ラバウルを叩きのめすことが、その主要任務であった。同様に強力であったのは、ニューギニアにおける連合軍航空基地(ブナ付近のドボズラ、ミルン湾、ポート•モレスビーにある)の相互支援であった。これら飛行場から、ジョージ・ケニー将軍の米第五航空部隊は作戦したが、同部隊には豪州空軍の数個中隊が配屈されていた。ソロモン諸島航空部隊と第五航空部隊の任務は、二、三力月の間に、東部ニューギニア=ソロモン諸島=ビスマルク諸島方面全体の制空権を獲得することであった。

 一方、ムンダ岬とその近くのコロンバンガラのヴィラ川の川口にある、中部ソロモン諸島の日本軍の二つの飛行場は、ガダルカナルに対し引きつづき厄介な存在であり、脅威であることが証明された。これら飛行場を占領または無力化する準備として、ターナー提督の第三水陸両用部隊は、ヘンダーソン飛行場の北一八五マイルにあるラッセル諸島に、地上部隊と"海の蜜蜂"(シービーズ)を上陸させた。同地に小艇用基地がつくられ、ソロモン諸島航空部隊の爆撃機が北部ソロモン諸島へ攻撃できるように、二つの滑走路が建設された。ラッセル諸島の占領前後に、連合軍の艦艇と飛行機は、ニュー•ジョージアおよび南部ブーゲンヴィル周辺の海に機雷を敷設し、ソロモン諸島航空部隊は昼夜を問わず、ムンダおよびヴィラ飛行場に爆撃を加え、海軍少将スタントン•メリルおよび海軍少将ウォルデン・L・エーンスワ—ス指揮の巡洋艦と駆逐艦からなる二つの任務部隊は、日本の飛行場に対し長時間の艦砲射擊をするため、交替で夜間行動をした。」

 三月末、連合軍統合参謀本部は、「第二任務」(ラバウル方面への侵攻)に関する指令を出す。マッカーサー将軍率いる陸軍は、ラエ付近からニューブリテン島に侵攻する。ハルゼー提督はブーゲンビル島を攻略、飛行場を構築し、戦爆連合でラバウルに航空戦をしかけることであった。

 ハルゼー提督の計画は、ルッセル島、ガツカイ島、レンドバ島、コロンバンガラ島、ムンダ飛行場のあるニュージョージア島と順次駒を進める作戦であった。連合軍航空隊はガダルカナル島のヘンダーソン基地から侵攻作戦のために、連日航空機で攻撃し続ける。しかし、航空戦はともかくジャングルでの陸上戦では日本軍の抵抗が厳しく苦戦を強いられる。ニュージョージア島での攻防では、4,500名の日本軍は一月に渡って上陸した米軍の攻撃を食い止める。最終的には、32,000名の陸軍兵と1,700名の海兵隊で押し切りムンダ基地を手に入れる。日本軍は、コロンバンガラ島へ兵を移し、次の決戦に備えることにした。ハルゼーは、コロンバンガラ島での戦いをスキップし、べララベラ島に無血上陸するのだが、それはもう少しあとの話。ともかく、ニュージョージア島をめぐる攻防戦が始まった。

ラバウル航空戦図20211211

 前のnoteに書いたように、山本司令長官戦死後の弔合戦の意味をこめた4月20日の「ガツカイへの囮作戦」が空振りでおわり、虚しさだけが204空の搭乗員たちに残っていた。ここから204空の動静を追ってみる。

 4月22日は、ノーウエ泊地上空哨戒、青葉上空哨戒、陸攻隊直掩と3方面への作戦を展開している。ようやく搭乗機の修理を終えた杉田は、青葉上空哨戒任務に日高義巳上飛曹の二番機として出動しているが、敵とは遭遇していない。
  4月23日は、0550にラバウルからブインへ進出、上空哨戒任務。宮野隊長のもと18機で発進し、敵とは遭遇しなかった。このときは、辻野上豊光上飛曹の二番機として杉田は出動している。同じ日、0900から日高上飛曹を隊長としてブイン上空哨戒任務一直。1130から再び宮野大尉のもとで二直。このときは搭乗割からはずれている。

 4月24日は、新機受領のため野田隼人飛曹長以下九名が連合艦隊司令部のあるトラック島へ向かう。そのとき護衛機の搭乗員だった岡崎二飛曹と柳谷飛長の二人もトラックへ行き、そこで山本長官戦死の重苦しい空気を感じてくることになる。柳谷飛長は、「おい、柳谷。山本長官は戦死してしまったんだろう。墜落してしまったんだろう。きさまが口止めされているのはわかるーいや、返事はいらないさ」と言われ苦しい思いをしている。同じ日、森崎予備中尉の指揮下でブイン上空哨戒の任務に着くが天候不良で引き返している。

 4月25日は、ガツカイ島攻撃陸攻隊直掩任務につく。ガツカイ島はアメリカ軍の航空基地のあるニューギニアと日本軍の航空基地のあるブインの中間になり、両軍が制空権を争う最前線であった。ラバウルからいったんブインに着き、燃料を補給してから陸攻隊の直掩任務につき、再びブインで燃料を補給してからラバウルに戻っている。早朝、0515作戦開始で1440にラバウル帰着している。このとき、杉田も渡辺秀夫一飛曹の二番機として参加している。『六機の護衛戦闘機』では、この日の攻撃を鮮明に記述している。森崎の二番機が辻野上、三番機が杉田となっており、陸攻隊直掩任務のあと3機で引き返し、ガツカイの基地を地上攻撃したことになっているが、創作としてとらえる方が良いだろう。

 4月26日も、204空のガツカイ島攻撃艦爆隊直掩任務が記録されている。0520に作戦開始でブインを中継して任務終了ラバウル帰着が1445である。『六機の護衛戦闘機」(高木肇、光人社)にこの日の詳細が描かれている。
 「四月二十六日、ガッカイ島に対する攻撃は、前日に引きつづいて反復された。この日も、宮野大尉指揮下の零戦21機は、午前5時20分、ラバウル東飛行場を離陸し、午前7時に、いったんブイン基地に着陸した。それは、ここで582空の艦爆隊九機と、その直掩の零戦隊二十一機とに合同して、共同作戦を展開する手はずになっていたからであった。
 この作戦において、宮野隊の二十一機は制空隊の任につき、前日より約一時間遅れてガッカイ島上空にいたり、有力な敵戦闘機隊と遭遇しうるように空襲が計画されていた。
 戦爆連合五十一機からなる大編隊は、午前十時四十五分までに全機離陸を終わり、ブイン上空より、一路、ガッカイ島へ直進した。
 しかし、綿密な計画にもかかわらず、敵機と遭遇できなかったので、艦爆隊は、その所期の目的どおり、敵基地、および通信機械類を所持して、わがほうの行動を逐一通報中といわれる敵のコースト・ウォッチャー(沿岸監視員)が潜伏中であるとの情報がもたらされていた同島中央部の小港集落に全弾投下して帰投を開始し、直掩隊と制空隊も、やむなく帰還の途についたのであった。
<中略>
 杉田は、この二十六、二十七日の両日、愛機の整備が終わらなかったために出撃要務からはずされ、宿舎にあって休養を与えたれていた。」

 204空の「戦闘行動調書」にも杉田の搭乗は記載されていない。

 4月28日早朝、ラバウル上空にB17があらわれ2小隊6機が追撃にあがった。杉田は、今関元晴一飛曹の二番機として出動している。B17への攻撃は午前7時5分から20分間に渡って行われ、多数の命中弾を与えたが、撃墜するまでにいたらなかった。戦闘日誌に「左発動機内側より黒煙を吐かしめたるも雲中に逸す」と記録されている。このときは柳谷も追撃にあがっており、航空地図の余白に「敵追、ラバウル方面、四月二十八日、B17一機」とメモした。後日、敵からの攻撃で右手首を失った時にもこのメモの書かれた地図を持参しており、「血染めの航空地図」として戦後まで所持することになる。

 4月29日、204空はバラレ基地上空哨戒任務に3交代であたっている。杉田は1245から1615までの二直で、杉原眞平一飛曹の二番機として哨戒任務についているが、敵機とは遭遇しなかった。

 4月30日、204空は組織的な作戦行動を再開する。0505にルッセル島(ラッセル島)攻撃のため18機で出発するが天候不良のため1045に引き返している。杉田は日高義巳上飛曹の二番機として出動している。この日はブインに宿泊し、5月1日ラバウルへ戻っている。山本栄司令は『戦闘日誌』に『五月一日(土)終日、天候不良。各隊のfc(fighter of carrier 艦上戦闘機)各基地へ移動す。やれやれ、ほっと一安心』と記している。この頃、杉田の出撃は連日となり、帰着してからも整備兵とともに愛機の手入れを行っていたという。

 5月1日、杉田たち丙飛17期は二飛曹(二等飛行兵曹)に進級し、下士官となった。杉田はこのときまだ18歳であり、異なる年齢で構成されている丙飛では最年少の下士官ということになった。

 5月2日、リンデン往復飛行艇直掩任務に6機出動しているが敵と遭遇してない。この日、杉田は出動していない。この「リンデン」という地名をいろいろ検索したが、探すことができなかった。

 5月3日、ムンダ方面敵機邀撃任務で宮野大尉以下24機が出動した。ムンダはニュージョージア島の西のはずれにある要衝で日本軍が占拠しており、アメリカ機の出現を地上部隊通信所より零戦隊の最先頭にいる二式艦上偵察機に知らせ、バンクをもって零戦隊に伝えるという2段階の伝達手段で待ち構えていたが、最後まで敵と遭遇しなかった。その日はそのままブインにとどまる。また、3機が別にラバウルから飛行艇直掩に出動している。この作戦に、杉田は出動していない。

 5月4日、「戦闘行動調書」によるとブインより12機出発したが天候不良のためココポに着陸し宿泊、翌日ラバウルに戻っている。また、残りの機も4日から翌日にかけて分散してラバウルに帰着している。『六機の護衛戦闘機』(高木肇、光人社)では、ムンダ邀撃戦の経緯を柳谷飛長の『航空記録』や山本栄司令の『戦闘日誌』などを付き合わせて推測しているが、悪天候が続いていて詳細な個々の記録があいまいになっていると書いている。
 「いずれにしても、五月四日から八日にかけては、ラバウルおよびソロモン方面は悪天候下にあり、作戦行動は記録されていない。つまりこの五日間が、六機の護衛戦闘機にとってあの日以来、最初にやってきた長い”ぶきみな休息”の日々であったのである」

 5月8日、内地からB17の調査隊がくるため3機が誘導および護衛のために出動している。

 5月9日、18機でブインに進出している。13日のルッセル島(ラッセル島)攻撃への準備のためかと思われる。0455にラバウルを出て、0730に一旦帰着している。天候不良のためか? 1015に再び発進し、1145にブイン着となっている。その下に夕刻避爆の為16機バラレに移動と記されている。杉田は今回も日高義巳上飛曹の二番機として出動し、そのままルッセル島(ラッセル島)攻撃準備に入ったと思われる。

 アメリカの航空勢力はF4FワイルドキャットからF4Uコルセアに代わり、着々とルッセル島(ラッセル島)に整備されつつあり、今後の厳しい制空権争いの予感が押し寄せていた。そこで日本海軍司令部は次なる航空作戦としてルッセル島(ラッセル島)のアメリカ軍基地を現存の航空勢力を結集して急襲しようと考えた。そのためラバウル島に第25航空戦隊の251航空隊、702航空隊を進出させ、既存の204航空隊、582航空隊と合わせて多数の航空機を集結した。
 ちなみに航空隊の200番台は艦上戦闘機隊、500番台は艦上爆撃機および艦上攻撃機隊、700番台は陸上攻撃機および陸上爆撃機隊につけられていた。しかし、582航空隊には護衛戦闘機として零戦が配置されており、飛行隊長も艦爆隊、戦闘機隊と二人置かれていて事実上はラバウルでの主力零戦隊でもあった。

 5月13日、ラバウル基地にある各零戦隊合同でルッセル島への攻撃が開始される。総指揮官は204航空隊の宮野大尉、合わせて70機の大編隊で出発した。70機もの大編隊を率いるのは非常に難しい。特にその頃の日本機は無線がほぼ使えず、目視による編隊飛行になり、いっそうの難しさをかかえていた。
 3時間にわたる編隊飛行で目的地につくと、敵基地上空で大きく旋回をして敵を誘い出す。すぐさま、敵編隊F4Uコルセア約60機が迎撃に上がってくる。高度8000mの優位からの体制で戦闘に突入する。双方合わせて130機あまりの戦闘機同士の空中戦は約30分で終わった。

 『ラバウル空戦記』(第204海軍航空隊編、光人社)によると、成果はおもにF4Uで陸軍機のP39も数機混じっていた。F4Uは、まだ零戦相手の空戦に不慣れであったのであろう日本機側の勝利で終わっている。204空23、582空12、253空6、合計41機の撃墜だった。日本側の未帰還機は2機で、野田隼人飛曹長が戦死、刈谷二飛曹は自爆とされた。杉田の同期で宮野隊長の2番機を務めた大原二飛曹もこの時多数の被弾をしつつもF4Uを2機撃墜し、このときの奮闘が認められてのちに特別善行章が付与されている。久々の大空戦で、その日の搭乗割にはいっていなかった者は悔しい思いをして自慢話や戦闘状況を聞くことになった。杉田はこのときルッセル攻撃隊には参加していない。前日の5月12日にブインからラバウルに戻り、森崎予備中尉を隊長としたラバウル上空哨戒任務についていた。

 その日以後、5月は大きな空戦もなく204空は哨戒任務や護衛任務が続いた杉田も2番機として以下の三回出動しているが、撃墜の記録はない。

 5月15日、日高小隊の2番機としてラバウル上空の敵機邀撃任務
 5月19日、森崎小隊の2番機としてワウ方面の敵小型船舶銃撃任務
 5月23日、宮野小隊の2番機としてニューブリテン島上空での哨戒任務
 5月25日、日高小隊のの2番機としてコロンバンガラへ陸攻護衛任務

 この頃、東部ニューギニア方面でも連合国軍の動きが活発化しており、ラエから少し内陸にはいったワウに秘密飛行場が作られているという情報が入り、19日に宮野隊長のもと12機で攻撃に行っている。このときは森崎予備中尉の2番機として出撃している。この時の様子を宮野大尉の2番機だった大原二飛曹が次のように回想していることが『零戦隊長』(神立尚紀、光人社)に記されている。
「高原の中腹に緑の平野地が広がり、そこがワウの飛行場でした。ニ千八百メートルの山をかろうじて越せるほどの高度で、初発見の敵飛行場上空を通過、そこには飛行機が双発機一機と小型機数機が駐機してありましたが、隊長は攻撃することなく上空を通過しました。それから進路を南に向け、商度を上げて海岸に出たところ、湾(フォン湾)に小型船舶がいっぱいいて、陸揚げをしているのが見えてきました。
 隊長は高速で一気に高度を下げると、左手を上げ、顔の前で縦に前後に振って『単縦陣となせ』の合図、私は銃撃に入ると直感、機銃の発射準備を整えつつ、隊長、橋本機に続いて単縱陣の三番目に入りました。そして港から山の方へ高度百メートルで一航過、宮野大尉、二番機の攻擊状況は確認できませんが、私が、いちばん大きな油船を狙って擊つと、 船からパーッと煙が出ました」


 5月21日には、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が大本営より発表された。








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