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杉田庄一ノート92 「本田稔氏が語る杉田庄一」

 本田稔氏は、大正12年(1923)に熊本県吉野村(現熊本市)で生まれた。旧制中学5年時に甲種予科練合格、戦闘機搭乗員となる。開戦時は大分空、昭和17年に鹿屋空でシンガポールに派遣され英軍バッファロー戦闘機を初撃墜。その後、ラバウルに進出し二五三空(旧鹿屋空)所属でソロモン航空戦に参加した。杉田が護衛機をつとめた山本五十六司令長官の遭難時にブイン飛行場にいた。杉田と同じく護衛機をつとめた辻野上一飛曹が本田氏の同期だった。本田氏は山本長官を襲ったP-38戦闘機の邀撃に上がっている。そのときに右下腹部にキリキリする疼痛を覚える。盲腸炎だった。腹膜炎を起こしておりすぐ手術、半月後に歩けるようになるとすぐに退院した。すぐにB-17来襲で本田は邀撃にあがりみごと撃墜するが、空戦によって傷口がやぶれ、なおりかけていた盲腸が飛び出てしまう。意識を失いながらかろうじて着陸、今度は内地送りになってしまう。内地では大分空、三六一空を経て三四三空に編入、戦闘四〇七隊で分隊長になる。戦後は航空自衛隊でパイロットの養成やテストパイロットを務め、退役後は三菱重工でもテストパイロットを務めた。

さて、本田氏はラバウル戦では杉田と直接同じ部隊にいたわけではないが、ブイン基地をおなじくしていて、顔見知りではあったはずである。戦争末期の三四三空では、「三〇一隊の菅野には杉田」、「四〇七隊の鴛淵には本田」というようなポジションにいた。本田氏は、「本田稔空戦記」という著書を残している。その中で、4月15日の杉田撃墜の場面を次のように書き残している。
 「その日、私は地上待機であった。午後二時ごろ、
 『敵戦闘機約八十機鹿屋に向かう』
 という情報が入り、待機の『紫電改』がエンジンを始動した。間も無く二機が発進命令に従って滑走を始めた。
 その時、F6F四機が基地南方上空に姿を現した。
 司令はとっさに、
 『発進止め!退避』
 という指示を出されていたが、すでに走り出していた二機はそのまま滑走を続け、離陸しようとしていた。やがてその二機をめがけてF6Fが襲いかかってきた。離陸時の飛行機ほど弱いものはない。前の『紫電改』は離陸と同時に火炎に包まれてふらふらと飛ぶや、そのまま滑走路にたたきつけられて炎上してしまった。あとの一機は滑走中に搭乗員がやられたとみえて、滑走路端の藪の中に突っ込んでしまった。
 前機は、かつて坂井三郎少尉と共に撃墜数を競った杉田庄一上飛曹であり、彼は昭和十八年四月十八日、山本長官がブイン上空で戦死された時の六機の護衛戦闘機の一人であった杉田上飛曹は、たとえ『発進止め』という号令がかかっても、止まるような男ではなかった。
『敵機とみたらグアッと向かっていくのが俺の性分だ』と燃えさかる愛機の中で語りかけているような男であった。・・・・・彼は、撃墜機数七十余機、西沢、岩本について日本海軍戦闘機乗りのエースとして第三位にランクされている」
 情報発信の間合いがとれないので、三四三空は基地を国分に引っ越すことになる。




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