見出し画像

杉田庄一物語 その52(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」 ケ号作戦発令・航空撃滅戦

 一月二十四日早朝、ガダルカナル島に揚陸中の敵艦船攻撃に向かう艦爆隊の直掩に二〇四空の三小隊が出撃した。ルッセル島上空は雲におおわれており、攻撃は中止となる。

 同日午後、明日から始まる「ケ号作戦」のための偵察を二〇四空は命ぜられる。「ケ号作戦」はガダルカナル島に残されている陸海軍の兵員を撤収する作戦で、「ケ」は捲土重来(けんどちょうらい)からつけられた。

 偵察場所はガダルカナル島の北に位置するツラギ島周辺である。このあたりはすでに敵艦戦が警戒行動をしていると思われ九機の零戦による強行偵察となった。戦闘行動調書には「シーラーク水道強行偵察任務」と書かれている。指揮官は宮野大尉、杉田は第一小隊二番機(つまり、宮野の二番機)として編成表に入っている。シーラーク水道は、フロリダ諸島とソロモン諸島の間の海域である。

 十四時にブイン基地を出発し、十五時二十五分にシーラーク水道に到着している。ツラギ島泊地には、戦艦らしきもの四隻、巡洋艦もしくは輸送船一隻、駆逐艦又は小艦艇数隻、その他小船艇多数、シーラーク水道上にも輸送船が一隻、確認することができた。敵飛行機の出現は記録されていないが、七・七ミリ機銃と二十ミリ機銃の消耗が記録されている。おそらく艦艇に機銃掃射をおこなったのだろう。被害は無であった。十五時三十五分には偵察終了。十七時二十分にブイン基地に戻っている。

 一月二十五日、「ケ号作戦」がはじまった。およそ一万三千人の将兵及び軍属をガダルカナル島及びルッセル島から撤退させるため、一月下旬から二月上旬にかけて三次の作戦として行う計画がたてられていた。山本五十六長官は「今次ノ作戦ハ至難ニシテ其ノ成否ハ戦局ニ影響スルコト極メテ大ナリ 各隊(艦機)ハ全力ヲ尽シテ本作戦ヲ完遂以テ聖旨ニ副イ奉ランコトヲ期セヨ」と訓示した。前進部隊と支援隊とが第二艦隊で構成され、撤退がはじまる。

 撤退作戦を隠すためにこれまでどおり航空攻撃や物資輸送は続けられた。撤退に従事する部隊であるのにあえて増援部隊と呼び、その行動を秘匿した。米軍は最後まで気づかず、日本軍の増援作戦と誤判断していた。結果としてこの撤退作戦は成功するのだが、まずはこの日の「ガダルカナル島航空撃滅戦」から撤退作戦がはじまった。敵の航空勢力を排除し、撤退作戦を容易にするためである。

 九時三十分に二十二機の零戦でブイン基地を出撃、他の隊と合流、十一時四十分にガダルカナル島上空に到達し、十一時五十五分にグラマン三機と交戦、一機を撃墜して十五時十五分にブイン基地に戻っている。中隊指揮官は小福田少佐で、杉田は第二中隊第三小隊二番機として編成に入っている。小隊長は、大正谷宗市二飛曹であった。

 航空撃滅戦は、陸海軍航空機による協同作戦の一環として実施されていて、この日は一式陸攻十八機をガダルカナル島北西海域まで飛ばし、敵戦闘機をおびき出して零戦五十八機をもってたたくという計画だった。二〇四空のほかにもラバウルを基地とする五八二空、二五三空が参加している。しかし、誘導されて出動してきた敵機は少なく戦果はわずかだった。にもかかわらず悪天候のため零戦六機を失うことになってしまう。さらにぬかるんだブインの滑走路で六機大破という後味の悪い結果になってしまった。一式陸攻も一機未帰還となった。

 この航空機撃滅戦に参加した二五三空の本田稔二飛曹は帰路、眠気と闘いながら飛んでいた。長時間飛行で血液の循環が悪くなり、尻の感覚がなくなってくる。連日、湿度の高い宿舎で眠るため睡眠不足であるのに、機体のゆれ、エンジンの振動、上空の気温、空戦後の精神的開放感、すべてが眠りをさそってくる。チョコレートを食べてもだめ、股をつねったり、ドライバーの先で腿をつついたりしても目が覚めない。自分だけでない。編隊から離れ横滑りして降下し、海に落ちる者もいた。戦闘ではなく睡魔に負けてしまったのだ。そして、天候が激変した。そのときの様子を「本田空戦記」(本田稔、光人社)から抜粋する。

「コロンバンガラ島を過ぎてしばらくすると行く手に一面の雨雲が立ちはだかっていた。避けられるものならば避けて通りたいのだが、連綿と続くこの雨雲は避けようがなく編隊はそのまま雲の中に突っ込んでしまった。 はじめは霧のような雲で風に流れており、時折僚機も確認できたが、次第に雲層が厚くなり、やがて、 もくもくと盛り上がる南方独特の積乱雲にわれとわが身をもてあそばれるように激しく揺られ、(これはいかんなんとか脱しなければ)と、次から次へと盛り上がってくるおびただしいエネルギーを含んだ雲を、上下左右に体をかわして、一つ避け、また一つやり過ごしながら飛行を続けた。

(中略)


 敵につかれるのも怖いが、この未知なる自然の恐怖もこわかった。実際には大した時間ではなかったであろうが、随分長い間雲の中にいたような気がした。

 (中略)

 やがて再び雨雲が濃くなり銀色に見えていた海面すら見えなくなってしまった。ブーゲンビル島には三千メートル級の高山がある。私は念のため高度をあげたが、雲行きは上も下も全く同じであった。

 こうなると戦闘機乗りは全く孤独であり、励まし合う相手もなく、このまま燃料切れで海中に落ちても誰も見届けてくれるわけでもない。 それを思うと、たまらなく寂しい気持に襲われる。これも華やかな戦闘機乗りの宿命であり、孤独と寂廖との戦いが始まるのである。空戦の最中とか、被弾して墜落するとか、先ほどの雲にもて遊ばれて精一杯飛行機を操っている時とか、気が張りつめている時はよいが、何事もなく平穏な飛行を続けてはいるが、あてもなく、一体どこに向かって飛んでいるのか見当もつかない。まして燃料もあと三十分、二十分と減っていくとなれば、これほど心細いことはない。 こんどこそ年貢の納め時かと考えたことも再三であった。こればかりはなにくそと力んでみても始まらない。

(中略)

 燃料計が気になりはじめた。あと十五分くらいしか飛べない。しかし島影は依然として見えない。だが、心なしか海の色が青味を帯びてきた感じだ。すると濃い霧のような雲が徐々に切れ、時折ひと固まりになって、スウー、スウーと後ろに流れていく。

 残り少なくなった燃料を知ってか知らずか、エンジンはもう九時間以上も調子を変えず、極めて快調に動いている。

 そのとき、突然左右両側に山が見えた。今の今まで一面広い海原しか見えず、どんなチッポケな島でもと願っていたのに、全く突然雲の切れ間から大きな山が手にとるように見え、しかも雲が切れて下の方までよく見えるのではないか。

 私は迷いながらも戦ってきたもう一人の自分と、喜びを分かち合うように、大きな声で『助かったぞ』と叫んだ」

「本田空戦記」(本田稔、光人社)


 雲の中を二時間半ひたすらカンをたよりに飛んで、本田はなんとかラバウルに帰り着いた。ラバウルまでたどり着いたのはわずか七機。あとは、ブインかバラレに不時着したか、未帰還になったかであった。杉田がどのように飛んで、どの基地に降りたかは不明であるが、無事生還している。

 このあともガダルカナル島撤退を優位に進めるための航空撃滅戦を計画するが、二十九日、三十日、三十一日と天候不良でガダルカナル島への進攻は中止になっている。この時期の積乱雲は敵よりも手強かった。結局、航空撃滅戦が不十分なまま「ケ号作戦」開始日(二月一日)を迎えることになる。

 一月二十六日、前日の不時着未帰還機の捜索に早朝から六機の零戦が飛んでいる。ブランサエ水道上空で高度二千メートルに敵大型機一機を発見するが交戦せず、捜索活動をおこなっている。八時三十分にムンダの近くにあるヴィックハモ島で零戦を発見、八時四十五分に一式陸攻の搭乗員を発見と記録されている。零戦は二五三空の分隊士として着任したばかりの中島三教飛曹長のものだった。前日、不時着水してから海岸まで泳ぎ、英軍の捕虜になった。

 一月二十七日、この日は陸軍の一式戦五十九機と九九式軽爆九機がガダルカナル島に昼間攻撃を行い、敵陣地を爆撃した。また、敵戦闘機との交戦で六機を撃墜したが、P38戦闘機がルッセル諸島ブラク島付近まで追撃してきて、一機自爆四機未帰還という損害も出している。以後も陸軍機が攻撃に参加していたが、かくたる戦果を得ることができないため協同作戦から引いていくことになる。

 一月二十八日、エスペランス岬の北西にあるルッセル島の確保が急務となり陸上部隊が動いていた。二〇四空は、午後から零戦十五機でルッセル島攻略部隊の上空哨戒任務に出撃している。全体の指揮官は宮野大尉。杉田は第二中隊第一小隊二番機として編成に入っている。小隊長は森崎予備中尉であった。敵と遭遇しないで任務を終えている。

 その日の夕刻、B17爆撃機が七機ブイン基地を襲った。空襲によって上平飛長、三澤二飛曹が戦死した。また、木股二飛曹が、エンジン故障のため飛行場にもどる途中で椰子の木に主脚をひっかけ、もんどりうった機体の火災のため命を落としている。

 同日、東条英機首相は、国民に対して次のような声明を発表している。「戦争の第一年で戦争の足場を固め、占領地域は攻防両全の備えを完成し、必勝の信念を確立するに至った。戦争の前途には何等不安はない。しかし、最後の勝利を得るまでは国民はあらゆる困難を耐えねばならない」ラバウルやニューギニア方面での苦戦について質問されると、「マリアナ群島方面では鉄壁の守りを固めているので、戦争の前途に何の不安もない」と、言明した。つい一月前の御前会議でガダルカナル島撤退を決めたばかりであり、前線では「ケ号作戦」が行われていることは国民には知らされることはなかった。戦争を計画遂行する中央と実際に戦場にある前線司令部とに大きな乖離ができていた。精神論が先行し、実情の理解や分析に基づく計画がなされることがなくなってきたのだ。

 振り返れば、日露戦争ではロシアに大勝利を収めた日本であるが、ポーツマス講和条約では一歩も二歩も譲歩して戦争を収束させている。戦争のための資金もつき、砲弾の補充もままならなかったという現実を踏まえてのことではあるが、国民は政府の弱腰を責めて交番など二百以上も焼き討ちされた。しかし、時の桂首相は断固として戦争終結の道を進んでいる。勝ち戦であっても戦争を終結するのは困難がある。負け戦を認めない為政者は戦争終結への道を歩むことはできない。

<引用・参考>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?