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杉田庄一ノート103 「蒼空の航跡」(久山忍)

 副題は「元ゼロ戦パイロットが語る空戦と特攻の記録」である。ここでいう元ゼロ戦パイロットとは、今泉利光氏(昭和十六志、丙飛十六期)のことである。本書は、今泉氏の話を久山(ひさやま)氏が二年間かけて電話で聞き取り調査して起こした記録となっている。

 今泉氏は大正十二年生まれで高等小学校、青年学校(三年)のあとパイロットにあこがれて昭和十六年に海軍を志願する。一年間の駆逐艦乗務のあと丙飛予科練の試験をうけて十六期生として戦闘機パイロットになった。年齢としては杉田は年下であるが、杉田は丙飛三期で「メシの数」は多い。今泉氏が戦場に出たの昭和十九年になってからで、二五四空に配属された。海南島、フィリピン、台湾と転戦し、マラリヤで高熱を出した後、二〇一空へ単機乗り込み特攻を志願する。特攻を命ぜらることなく、その後、二〇五空に編入し特攻隊の辞令をもらう。台湾に移り、特攻待機中に終戦を迎える。

  この本には杉田のことは記されていない。しかし、興味深い記載がいくつかある。パイロットへのあこがれについて、高等小学校の時代に日中戦争が始まり渡洋爆撃が報道されたことが影響したと書いている。

「昭和一二年に日中戦争がはじまった。ちょうど私が高等小学校を卒業したころだった。
 ラジオや新聞では『渡洋爆撃』のニュースでもちきりだった。『渡洋爆撃』とは、航空機をつかった長距離爆撃のことで、昭和一二年にはじめて日本海軍が中国に対しておこなった。
 日中戦争がはじまると、飛行機で号外がまかれた。十四歳だった私は、そのたびに外に飛び出し、何枚もひろっては食い入るようにみた。
 ビラにはかならずといっていいほど日本のパイロットの活躍が描かれていた。そして戦闘機の絵や写真をみて、あらためて『パイロットになりたい』とおもった」

当時の放送は当然だが、ラジオ放送である。メデイアが戦争を伝え出し、とくに空中戦のヒーローを取り上げていたことがわかる。今で言えば、アスリートのヒーローのように伝えられたのだろう。子供たちだけでなく大人も夢中になって戦果報告を聞いていた。全国の子どもたちはパイロットにあこがれ、戦争ごっこも空中戦を取り入れていたものになっていた。
しかし、現実にパイロットになって戦場に出た頃には状況が一転する。

「日中戦争が始まったころの日本の主力戦闘機は「九六戦」(九六式艦上戦闘機)であった。まだ、ゼロ戦はなかった。
 昭和十二年ころから、この九六戦による中国機の撃墜状況が毎日のように放送され、日本の戦闘機は無敵だと宣伝された。そして、戦闘機のパイロットは、あこがれの職業となった。
 たしかにこの当時の日本の戦闘機はよく墜としていた。一機で何機でも撃墜することができた。
 日本機が強かった理由は、日本のパイロットが優秀だったからである。しかし、もうひとつ大きな理由があった。それは、飛行機の性能の違いである。・・・中略・・・
 この日中戦争のときが日本の戦闘機がもっとも活躍した時代である。いいかえれば「敵機を墜としやすい時代だった」といえる。
 ところが太平洋戦争がはじまると状況が一変した。そして私がパイロットになった戦争末期にいたっては、米軍機に圧倒され、撃墜どころのさわぎではなかった。何倍もの敵が波のように押しよせてきた。逃げるのがせい一杯だった。
「日本の戦闘機が何機墜した」
などという威勢のいい話は、日中戦争がはじまってから太平洋戦争がはじまるまでの昭和一二年から一六年までか、せいぜい一七年のはじめころまでにかぎられる。
 とくに、昭和一七年にミッドウェイで負けてから全然だめだった。形勢は完全に逆転し、圧倒されっぱなしという戦況になった。そして日本海軍航空隊は劣勢を挽回できないまま、昭和二〇年八月一五日に終戦をむかえた。これが現実であった」

ミッドウェイ以後と以前での日本の戦闘機の状況の変化である。向かうところ敵なしのゼロ戦の栄華もミッドウェイ以後に激変する。新型機が続々と登場する中で日本海軍はあいかわらずゼロ戦神話と精神論で戦おうとしていた。1000馬力エンジンから2000馬力エンジンという時代の変化についていかれなかったのだ。ここらへんの話は、せっかくコンピュータの時代を切り開いていた日本の半導体が21世紀をむかえるとともに凋落していくありさまを思い起こさせてしまう。イノベーションはし続けないと、過去の遺物になってしまい、かえって進化の邪魔になる。話が愚痴にそれてしまった。
 ところで、特にこの本では書かれていないが、戦闘機の進化はガダルカナル航空戦の前後で大きく変化する。台南空がはなばなしく戦果をあげたのも前期の頃で、後期からはアメリカの二千馬力級の新型機に追いまくられる戦いになる。一撃離脱という速度や高度を重視した戦いにゼロ戦はついていけない。ベテランはそれでも交わして巴戦などに巻き込んでしのいでいたが、新人は餌食になってしまう。そのベテランも交代要員のいない中で消耗していくという現実をむかえることになる。
 杉田はミッドウェイ後に戦場に入り、わずか二年間で圧倒的な空戦技術を身につけたが、それは劣勢の中で獲得した技術であった。だから、編隊飛行にこだわり、編隊を組む後輩の指導を徹底していた。


ところで今泉氏が受けた編隊飛行の訓練に疑問をもってしまう。
「戦闘機による編隊飛行は、赤とんぼでやった編隊訓練とおなじであるが、ただし今度は四機でおこなう。四機編成で空中戦をするのは、世界共通であった。
 通常の編隊飛行は三角形になる(フィンガーフォー形式)。会敵して空中戦になると一直線になり、一番機(小隊長)、二番機(列機)、三番機(列機)、四番機(列機)。
 一番機が小隊長。二番機以下は列機という。攻撃するのは一番機だけ。二番機以下は撃てない。一直線の状態で列機が撃つと、前の機体にあたるからである。飛ぶ前によく先輩から『貴様ら、絶対に撃つんじゃないぞ』とクギをさされたものである。・・・(中略)・・・
列機の任務は一番機の護衛である。二番機から腕のよい順(先輩順)に飛ぶ。
 列機が何人やられても、有能な小隊長がのこれば列機はいくらでも補充ができる。だから、二番機、三番機、四番機をつけて小隊長の身代わりにするのである」

 通常飛行は四機編隊のフィンガーフォー形式(親指をのぞく右手指四本をのばしたような形体)であるが、空戦になると一番機を追じょうする形の一直線になると説明している。二番機は一番機の護衛で三番機、四番機とその補充として位置すると書いている。これでは編隊空戦はできない。しかも、撃つのは一番機(小隊長)のみで、四番機は「敵にカモになる任務」と説明している。これでは形状は四機編隊であるが、従前の三機編隊飛行の空戦法のままである。おそらく四機編隊での空戦を知らない?あるいは訓練できない指揮官のもとで取り入れたからではないかと思われる。
 三四三空で杉田が笠井などの列機と行っていた訓練は、四機編隊での離陸、そのまま編隊を崩さないままのスローロールや急降下、急上昇、きわめつけの編隊宙返りである。フォーメーションを決めての編隊空戦の訓練は、そのまま実戦に生かされたと笠井は書いている。また、杉田は一番機が撃つときはいっしょに撃てと指導している。追じょうでの一直線四機編隊ではなかったことがわかる。

「『列機がやられながら一番機が敵機を墜とす』
空中戦をひとことでいうとそうなる。
『〇〇は何機撃墜した』
などとよくいう。しかし、撃墜というのは、味方の犠牲の上にたって成立するということを忘れてはならない。
 当時も『俺は何機墜した』と声高く自慢する人がいた。そのなかにあって、敵機を数多く墜した実績をもちながら、それをいわない人はいわなかった。
『撃墜数など自慢するものではない』
という信念をもっていたのだろう。私は数を誇らない先輩をえらいとおもい、尊敬していた」

「よく何機墜したなどという人がいるが、実際にはそんなに墜とせるものではない。真珠湾攻撃のあと、昭和一七年までのアメリカの主力機はグラマンF4Fだった。F4Fは零戦よりも速度が五十キロおそい。しかもテクニックは日本のパイロットの方が上だった。だから、多少、相手が多くても互角に戦うことができた。
 しかし、昭和十八年にF6Fがでてきてからはもう墜とせない。うあみといわれている人でもF6Fの撃墜数はせいぜい一機か二機、多くても三機だろう。F6Fを五機も墜とせばその時代を代表するエースとなる。しかし、F6Fを何機も墜した人がはたしていたかどうか。なにしろ速度がゼロ戦よりも百五十キロ以上も速い。しかも二倍、三倍の機数で攻めてくる。とてもまともに勝負できるような状況ではない」

 杉田の列機だった笠井氏によると、杉田は撃墜を自慢をすることなく撃墜数を気に留めなかったと書いている。ただ、戦果報告にはこだわっていた。おそらく過剰の戦果報告がフィリピンやマリアナでの作戦立案に影響してきたのを肌で感じていたのだろう。笠井に戦果報告の正確さを厳しく指導している。
 しかし、個人の撃墜数にはこだわっていないため、公式の撃墜数も自分で残した記録もない。戦闘行動調書などに記録されているものをひろっていくと三十数機になるが、戦闘行動調書がすべて残されているわけではない。しかもラバウルでの後期は個人撃墜を記録することがなかったため、戦死後の感状には「個人撃墜七十機、協同撃墜四十機」と概数が書いてあるだけである。もっと多いという搭乗員仲間もいれば、実数は四十機前後だろうという研究者もいる。杉田は、そんな数も気に留めないだろう。

 


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