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杉田庄一物語その2 第一部「小蒲生田」杉田の幼少期

 昭和の大恐慌が起きた頃が杉田家の子育て時期と重なっている。次男である庄一は、できるだけ早く自立し、家に現金収入をもたらす必要を感じていた。この時代の多くの次男、三男と同様に杉田も当然のように軍隊での出世を目指した。海軍志願兵、それも航空兵。それは全国の少年たちのあこがれでもあった。


左から次男庄一、三男正昭、五男謙吉、長男守家 (写真提供:石塚広邦氏)


 昭和三年(1928)、 杉田は四歳になった。この年、中国東北部をおさえていた軍閥の張作霖が満洲鉄道で移動中、関東軍の謀略によって奉天近郊で爆殺される。勢力を拡大していた張作霖を排除するためだった(張作霖爆殺事件)。政府は関与を否定したが、関東軍参謀河本大作大佐の計画立案によるものであることが判明する。昭和天皇は激怒し、田中義一首相に辞職勧告を行うが、西園寺公望元老によって諌められ、以後は政治に口を挟むのを厳に慎むことになる

 昭和四年(1929)十月二十四日、ニューヨークのウォール街で株式大暴落がおき、世界恐慌に発展する。日本においても約三百万人の失業者が生まれ、米、野菜、繭など農業価格が暴落し、翌年、翌々年と農業恐慌も連鎖し農村も加速的に窮乏した。都市部から失業者が帰ったため農村はますます疲弊し、食べるものがなくなり飢饉に陥る。農村女子の身売りが続出した。官費で学べる陸軍士官学校や海軍兵学校の人気が高くなり、志願兵を募る海軍に進む少年たちも多くいた。希望者も多かった。

※ タイトルの紫電改のイラストは、イタリア在住のエンジニアであるFlavio Silverstri(フラビオ・シルベストリ)氏の描いた杉田庄一の乗機。Silverstri氏は英語や日本語の文献をGoogleで翻訳して杉田の研究をしている。

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