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杉田庄一ノート90 「奥宮正武氏が語る杉田庄一」

 奥宮正武氏は、明治42年高知県に生まれ、昭和5年に海軍兵学校を卒業、昭和8年に海軍練習航空隊飛行学生になり、海軍飛行隊畑を歩んだ。開戦時には第十一連合航空隊参謀となり、ミッドウェイ作戦、南太平洋作戦、ソロモンおよびラバウル航空戦、あ号作戦に参加した。昭和19年8月より大本営海軍参謀となって終戦をむかえる。戦後は防衛庁に務め、退職時は空将。主な著書に、「ミッドウェー」「機動部隊」「零戦」「ラバウル海軍航空隊」「海軍特別攻撃隊」「日本防衛論」などがある。

「ラバウル海軍航空隊」の中に山本五十六海軍司令長官の護衛機に関する記述があり、杉田にふれている。

「長官一行の乗った一式陸攻の二機には六機の零戦が護衛という形で付けられたが、これらはすべてブイン基地にいた第二〇四航空隊に属するものであった。私が、のちに、当該航空隊で、この六機の編成をした責任者の一人に聞いたところでは、同隊では全く空戦を予期していなかったとのことであった。
 では、なぜ、六機の零戦を出したか。
 端的にいえば、ブインでは基地航空部隊指揮官の戦闘機派遣命令を儀礼的なものとして受け取っていた。その何よりの証拠には、六機の指揮官には、同航空隊で最も実戦の経験の少ない森崎予備中尉が選ばれていたことであった。六名のパイロットの中にはわが海軍の下士官搭乗員中最も優秀な一人と見られていた杉田庄一一飛曹がいたが、彼は空中戦闘のためというよりは飛行機隊指揮官を援けて随伴の任務の達成を容易にするために特に指命されたようであった。」

奥宮はここで「海軍の下士官搭乗員中最も優秀な一人」と述べているが、この時期はまだ他の多くの下士官よりすば抜けて優秀だったわけではない。だいたい、まだ下士官ではなく飛行兵だった。確かに初出動でB-17を墜してはいるが、空戦のうまさというよりも度胸と胆力の賜物だったともいえる。他にも優秀な下士官がいたし、杉田自体はまだまだひよっこの兵であった。ただ、度胸と胆力はずば抜けていた。
 杉田の実力が本当についてくるのは山本長官護衛の失敗からである。奥宮氏がこの本を書いたのは戦後であり、その頃には杉田は二〇一空や三四三空での活躍で知れ渡っていた。



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