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杉田庄一ノート66 昭和19年7月〜ヤップ島での菅野分隊

 菅野分隊の4人がダバオで訓練中に問題をおこす。詳細は『杉田庄一ノート30菅野直隊長あらわる』に記してあるが、笠井氏ら甲飛10期生4人がダバオの街の慰安所(料理店)で他の客と口論になり、それがエスカレートして殴り合いをしてしまったのだ。その客は陸軍の憲兵隊大尉だったので問題があとでこじれた。翌日になってから当該の兵隊を引き渡せと申し入れてきたが、菅野大尉は「そんな者はおらん」と突っぱねる。翌日も翌々日もしつこく来るので、菅野はヤップ島での邀撃任務を買って出る。ヤップ島はダバオから1500km離れた戦略的要衝の島で、連日アメリカ軍の重爆撃機B-24による爆撃を受けていた。そこで当時、ヤップ島へダバオの201航空隊から一週間交代で邀撃に出かけていたのだが、厄介な仕事であった。その任務に自ら手をあげ、ケンカをした4人を含めた一個分隊でヤップ島へ進出した。7月16日から24日にヤップ島で一週間を過ごすが、この間に凄まじい活躍を行う。連日、それも何度も邀撃にあがりB-24を墜としまくったのだ。『日本海軍戦闘機隊』(航空情報別冊改訂増補版、酣燈社) に以下のように記述されている。

 「菅野直大尉指揮の二〇一空一個分隊は7月中旬ヤップ島に進出、十六日から二十三日まで連日のように来襲したB24に対し、体当たりを含む果敢な邀撃戦を展開、撃墜十七(うち不確実九)、撃破四十六の戦果をあげ、一航艦司令長官の表彰を受けた」

  このとき菅野分隊がとった戦法が『直上方攻撃』である。大型爆撃機を攻撃する方法としては、『後上方攻撃』『直下方攻撃』が常套であった。しかし、B24の防御力は高く、あらゆる方向に向けて10問の13mm機銃をもっていてほとんど死角がなかった。逆に返り討ちに遭う可能性の方が高い、そこで唯一の死角である直上から接近し攻撃をするという戦法を菅野は考え出した。 前上方から接近し、直上方で背面になり逆落としに敵大型爆撃機の操縦席めがけて射撃を加えながら主翼と尾翼の間をすり抜けるのだ。その間約1秒。背面になることで急角度での急降下が可能になり、行き足もつく。急降下時の速度は空中分解寸前まで出て(およそ330ノットで禁止速度になっていた)、ときに「フラッター現象」がおきて翼全体に皺がでることもあったという。

 小説『新・蒼空の器』(豊田穣、光人社)の『春の嵐』の冒頭部分が、菅野大尉と杉田が『直上方攻撃』を考え出すやりとりになっている。かなり長いので会話部分を抜き出して追ってみる。

 「おい、杉田兵曹、さっき、谷田がラバウルで体当たりに失敗したとき、B17の鼻先をかすめて急降下したら、敵の一番機があわてて機首を右にひねって、三番機と衝突しそうになった、と言っていたな。」
 「は、そうです。日本のゼロが体当たりしに来たと思ったんでしょう」
 「これだ!」
 手を打つと菅野は立ち上がった。
 「・・・・・・」
  杉田はけげんそうに、小柄だが精悍そうなこのブルドッグ(菅野の異名)の顔を見上げた。菅野は言った。
 「そこだよ、体当たりは禁じられているし、毎回、体当たりしていてはこちらがもたない。体当たりをするとみせかけて、体当たり以上の成果をだすのだよ」
 「みせかけるんですか?」
 杉田はまだ首をひねっている。そんな器用なことができるのであろうか。菅野はかまわずに言った。
 「いいか、谷田はラバウルで、体当たりするつもりで敵の前上方から突撃した。このため、前部のガン・タレット(機銃搭)から猛射をを浴びて、エンジンに被災し、結局、テキの鼻先をかすめて降下するにとどまった。それでもテキに脅威を与えている」
「はあ、そうですな」
 杉田は、どうにか菅野の言わんとするところがわかって来たようであった。
「わかるか、おい、杉田。体当たりではないが、体当たりに近いダイブ(急降下)をやってテキの度肝を抜くんだ。うまくゆけばテキは列機と衝突したり、混乱する。これをしつこくやればヤンキーの出鼻を挫くことができるというものだよ」
「しかし、分隊長、体当たりにみせかけると言っても危険度は同じことですよ。
やり損なうと、体当たりになってしまうんです」

・・・・・二人の会話は決着が付かなかった・・・その夜、菅野はサソリ座のアンタレスを見ながら、低いところにあると気づくが高く上がるとわりと気づかないことから、真上からなら相手に気づかれない、真上から逆落としに攻撃できなかと考えを進める。真上から射撃しながら急降下し、敵の操縦席の真ん前を下に抜けられないか・・・・深夜にもかかわらず、杉田を呼び出す。

 「なるほど、結構ですな。じつは私も、いま簡易ベッドの上で、それを考えていたところです。ところで分隊長、敵の上空で、いきなり九十度で突っ込もうとすると、体が宙に浮いて操縦しづらいですから・・・」
 「うむ、少し手前で背面に切り返して、降角七十度くらいから撃ちながら肉薄する、というのはどうかな?」
 「いいですな。これなら、引き起こしながら九十度に直上降下して、突っ込めますからな」

 あくまでも小説であるので、そのとおりの会話があったかどうかはわからないが、豊田氏は取材に基づいてエピソードを拾っているのでこのようなやりとりがされたのは想像に難くない。大型機に対してはどのくらい接近できるかが攻撃のキーポイントになるが、ハリネズミのように機銃で周りを固めているため死角がない。初陣でB-17に接近しすぎ、結局体当たりで落としてしまった杉田と練習機を壊しすぎてデストロイヤー(破壊者)とあだ名がつくほどスタントを研究した菅野でなければ生み出せない大型機の攻撃法だった。『直上方攻撃』を行うには、恐怖に打ち勝つ精神力と人並外れた運動神経(動体視力かな)が必要だったと笠井氏は『最後の零戦パイロット』(笠井智一、光人社)に書いている。

 『直上方攻撃』で射撃をくわえるとB-24は主翼を吹き飛ばして海面に墜落していく。海に落ちると海面の色がさっと変わったという。部品や落下傘降下した搭乗員のまわりにはサメの群れが襲い掛かって、波がたったのだ。

 7月19日の空戦で内田栄一飛曹が戦死。21日、B-24邀撃にあがった富田隆治一飛曹が攻撃後に被弾し猛火に包まれながらも敵第二群指揮官機に体当たりをする。また、松尾哲夫一飛曹は、被弾して空中火災を起こしながら攻撃をつづけて一機撃墜後、海上に潜水艦を発見し、そのまま体当たりした。潜水艦の沈没が確認された。富田一飛曹と松尾一飛曹は戦死後二階級特進となっている。22日には摂津賢三上飛曹が戦死。これでダバオで事件をおこした4人のうち3人が戦死してしまい、笠井氏だけが残る形になった。

 このヤップ島での戦闘で菅野分隊ははじめてB-29と遭遇する。B-29は占領されたサイパン島のアスリート飛行場から飛来した。日本本土爆撃のための長距離飛行訓練をはじめたもので、菅野は「新大型機発見」と報告している。また、菅野編隊が攻撃を行ったが、20mm機銃が翼や胴体にあたって穴があいても落ちなかった。富田一飛曹や松尾一飛曹はこのときの空戦で戦死したという記述が『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)にあり、出典を『散る桜、残る桜』(甲飛十期の記録)としているが、当事者である笠井氏の『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)には空戦の記述はあるがB-24とされている。

 22日は菅野直隊長も接近しすぎて体当たりになってしまい、負傷している。B-24の編隊に攻撃を加えるがなかなか墜ちないのに業を煮やし、三回の攻撃後の反覆したあと四回目の攻撃で、背面から突っ込んだ時に右主翼でB-24の尾翼を引っ掛けたのである。B-24の尾翼は双尾翼になっていて、一方が壊れバランスを崩すと墜落する脆弱性をもっていた。双方とも時速500km以上で相対速度はその倍になる。瞬間的な判断で菅野は零戦の右主翼をひっかけたあと、失神する。零戦は右主翼を半分失いキリモミ状態で降下するが、途中で意識を回復した菅野は零戦を立て直し、胴体着陸でヤップ島の飛行場に滑り込んだのだ。

 一週間でB-24を17機撃墜、46機撃破の多大なる戦果を上げた。このためサイパンのアメリカ軍戦略爆撃隊はパラオ爆撃を一時断念した。戦後、このヤップ島でのB-24攻撃についてアメリカ軍戦略爆撃調査団から「カンノ」について調査があったと豊田氏は『新・青空の器』の中で個人的な仄聞として書いている。実は、杉田のところにも調査が入り、浦川原まで消息を訪ねてきたという話を関係者から聞いている。

 かくして一週間で多大なる成果をあげたが、部下を3人失い、乗るべき零戦も無くなってしまう。笠井氏らを引き連れて特設駆潜艇(木造140トン)でダバオへ戻る。船酔いをする菅野大尉はウィスキーを飲んで予防をしようとするが、船酔いも酒酔いもでグロッキーになる。さらにアメリカ機動部隊と遭遇する恐れがあるということで二昼夜かけてようやくダバオに戻った。



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