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杉田庄一物語その32(修正版) 第四部「ガダルカナル島攻防戦」ガダルカナル島航空戦

 九月二十七日、二十八日と一式陸攻と零戦による戦爆連合によるガダルカナル島空襲が行われる。「ラバウル海軍航空隊」(奥宮正武)に次のように記述されている。

「『カ』号作戦再興にもとづくガダルカナル島方面の航空攻撃は、九月二十七日から開始された。この日、久しぶりに零戦三十機、陸攻十八機が攻撃して敵の戦闘機多数と交戦、地上の三カ所を炎上させ敵機十四機(外に不確実四機)を撃墜したと報告したが、早くも陸攻二機が自爆し、零戦一機が未帰還となって、前途の多難を思わせた。 二十八日、零戦十五機、陸攻二十七機に先行して、零戦二十七機が制空隊として行動したが、零戦隊と陸攻隊との連繋が悪く、敵のグラマンF4F戦闘機隊が陸攻隊に殺到し、三沢空の陸攻隊指揮官森田林次大尉機を含む陸攻四機が自爆し、他の三機が未帰還となり、さらに他の一機が不時着するという大きな被害を出した。そして、この両日にわたる航空攻撃は戦爆連合作戦の失敗として、航空関係者に大きな問題を提起した」

「ラバウル海軍航空隊」(奥宮正武)


 二十八日の夜にラバウル基地で対策のための研究会が開かれ、陸攻隊からは戦闘機隊に対して強い非難が出て、新たな戦法をとることになる。「零戦隊長 宮野善治郎」(神立尚紀、光人社)に次のように記述されている。

「研究会での検討結果にもとづき、翌二十九日の攻撃では新戦法がとられた。零戦二十七機、陸攻九機がガ島に向かって敵戦闘機の邀撃を誘い、陸攻はガ島の手前六十里付近で反転、零戦隊はそのままガ島上空に殴りこみをかけるというものである。この作戦は成功し、零戦隊は敵戦闘機約三十機と空戦、F4F十一機とSBD一機撃墜を報じ、我が方の損害は未帰還一、被弾不時着一であった」

「零戦隊長 宮野善治郎」(神立尚紀、光人社)


 この戦法は有効性が認められ、十月二日、三日にも行われているが、敵も察知し次第に効果がなくなってしまった。

 九月三十日、木更津にいる六空主力隊が、空母「瑞鳳」に便乗しラバウルに向かうことになる。隊長は、宮野善治郎大尉である。搭乗員は士官二名、予備士官一名、准士官一名、下士官七名、兵十六名であった。初めて前線に出る若手搭乗員ばかりなので、デレックで零戦を母艦に積み、この日横須賀港を出発した。

 若手搭乗員は母艦上で発着陸に関する座学をしながら目的地に向かう。二個中隊(十八機)のうち三分の二機以上の搭乗員が発着陸の経験がなかった。しかし、すでに敵基地からの哨戒圏内に入っていて実際の訓練を行うことはかなわず、ラバウル近くまで行ったらぶっつけ本番で母艦からの発艦をおこなわなければならなかった。戦場にやってきたという緊張感と不安が若手には漂っていた。

 「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社NF文庫)から引用する。

初めての発艦に不安を覚えた大原二飛が、宮野に「大丈夫ですか」と聞くと、宮野は、
「大丈夫」
と、こともなげに答えた。ぶっきらぼうな答えだが、その言葉の裏には、これまでの猛訓練に耐えてきた列機への信頼が感じられた。
「飛行甲板に、零戦がずらりと並べられました。宮野大尉機が先頭で、私はその三番機ですから、かなり前の方です。飛行甲板の前端まで数十メートル、三点姿勢の操縦席に座ると、目の前には海しか見えませんでした。大丈夫かな、と思いながらエンジンをいっぱいに吹かして発艦すると、艦を離れた瞬間、飛行機はグッと沈み込みましたが、何とか無事に浮かび上がりました」(大原二飛談)

「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社NF文庫)


 十月二日、ラバウル基地の六空先遣隊が零戦三十六機をもって「ガダルカナル島敵航空兵力撃滅戦」を行う。十月中旬に、ガダルカナル島の日本軍へ重火器を送るために第六戦隊を基幹とした艦隊勢力を用いてヘンダーソン飛行場を艦砲射撃で叩こうという計画が立てられた。その露払いとして、事前にガダルカナル島周辺の敵航空兵力を零戦でできるだけ弱らせておこうという作戦である。

 全体指揮は小福田租大尉、第一中隊第三小隊一番機小隊長は平井三馬飛曹長、二番機は大正谷宗市三飛曹、杉田はまたもカモ番である三番機を命ぜられている。第一中隊第三小隊は七時十分にラバウル基地を発進しているが、杉田はエンジン不調のため引き返している。

 本隊はガダルカナル島付近まで接近、十時にグラマン三十機と遭遇し空戦になった。戦果は十二機撃墜、二機不確実であった。帰路、グラマンの水平爆撃機(アヴェンジャーか?)二機と遭遇し、共同撃墜をしている。第二中隊第一小隊三番機の小林勇一一飛が自爆戦死と記録されている。帰路は途中ブカ島基地にて燃料補給を行なっている。

 「自爆」と記録されるのは准士官以上に最後を確認され「現認証明書」が出された者で、「未帰還」は確認できなかった者と区別されていた。あくまでも敵にやられたのではなく、自分で潔く死を選んだという言葉の綾であった。また、「自爆」であると遺族への公報も早く、遺族年金や一時金、勲章などもすみやかに処理できる。「未帰還」のままだと保留されてしまうという不都合もあった。

 十月四日、六空は船団上空哨戒任務で二直に分けて零戦三機ずつ計六機が出撃している。また、朝七時に基地上空へ現れたB17爆撃機を、地上待機していた零戦八機が追撃するが見失っている。この日は、杉田はどちらの攻撃にも参加していない。B17単機の爆撃は日常的になってきていた。米軍の実情もB17の稼働機を揃えるのがやっとで大量爆撃による効果は見込めなかったが、日本軍側に心理的なプレッシャーを十分に与えることはできた。

 十月五日、戦闘行動調書によると、この日六空は三回の出撃を行なっている。午前八時三十五分に「偵察機直接援護」任務で零戦九機が発進し、ラバウルからガダルカナル島方面まで三時間以上かけて飛び、十一時五十分から写真偵察援護を行ったが、十分後に天候不良のため任務終了、再び二時間三十分かけて戻っている。一中退のみの出撃で、その編成は、第一小隊一番機田上健之進中尉、二番機福田博三飛曹、三番機中根政明二飛、第二小隊一番機岡崎正喜一飛曹、二番機木股茂一飛、三番機加藤好一郎二飛、第三小隊一番機西山静喜一飛、二番機中野智弌一飛、三番機杉田庄一二飛である。杉田はカモ小隊カモ番機をつとめている。

 別にこの日の十時三十分に「四直発進船団を発見せず」という記述がある。十二時から十二時二十五分にかけて「船団を捜索すれど遂に発見せず」とあり、十四時十五分に「基地帰着」で任務を終了している。四直というのは、当直任務四番目ということである。当時、上空哨戒任務や船団護衛任務を当直四交代で行っており、調書にたびたび「一直」「二直」という記載がある。しかし、いきなり「四直」のみが記載されているのは「一直」から「三直」は六空以外の基地航空隊で編成しているということだ。「船団見つからず」とあるが、敵船団なのか味方船団なのかの記載はない。この四直の名簿にも杉田が記載されている。編成は第一小隊一番機川真田勝敏中尉、二番機平井定雄一飛、三番機加藤正男二飛、第二小隊一番機鈴木軍治一飛曹、二番機加藤正雄二飛、三番機杉田庄一二飛である。これでは同時刻に別の隊で任務していることになる。実は、他にも「加藤正男」と「加藤正雄」が第一小隊と第二小隊に記載されていて、棒線で引き出して「同一人ならずや」と注釈がついている。これを見ると、この日の調書の記載はかなりあいまいだったことがわかる。

 この日の早朝五時十五分にB17爆撃機が六機でラバウル基地に爆撃にきており、その追撃にも六空は七機上がっている。戦果は「一機共同撃墜」、「一機攻撃見失う」と記載されている。六空はまだ本隊が到着しておらず、人員が少ない中で朝からフル稼働で相当あたふたしたのだろう。

 十月六日、「ラバウル上空哨戒敵機攻撃」とある。一直は四時十五分発進、二直は七時十五分発進、三直は八時発進と時間をずらして延べ二十二機の零戦が基地上空の哨戒任務についている。三直が基地に帰着したのが九時。その三十分後に警報が発令され五機の零戦が発進したが、敵を発見できず一時間後に帰着している。この日、杉田は編成に入っていなかった。

<引用・参考>




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