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杉田庄一ノート4:方言〜「六機の護衛戦闘機」での違和感

 山本五十六司令長官の護衛戦闘機だった6人のパイロットに焦点をあてた高木肇の「六機の護衛戦闘機」は、杉田庄一を知る上で貴重な一冊だが、読むたびに違和感を感じることがある。なぜなんだろうと再度読み直した。

 この違和感は会話文にある。


 杉田がつぶやく場面・・・「わしはな。強いからじゃない。弱いから突っ込むしかないんじゃ。さいわい、親からもろうた頑健無比な身体があるでのう。」・・・
空中戦について語る場面・・・「空中戦というもはのう、とにかく勝つか負けるかしか、なかでのう」・・・。4月25日の編成について語る場面・・・「悲壮感なんて、なにもなかったでのう。このときばかりじゃなけん。それからずうっとじゃ。わしは鈍感なのかの」・・・


 杉田の語る言葉は、すべてこんな調子で岡山弁(広島弁?)になっているのだ。杉田の育った新潟県の東頸城地方にも方言はあるがこのようにクセが強くない。どうも高城が想像する田舎言葉が岡山弁になっているように思えて仕方ない。たしかに杉田は田舎出である。高城の考える田舎言葉は「わしは・・・じゃけん」となるというステレオタイプじゃないかと感じてしまうのだ。

 東頸城では男も女も「おら」が通常の一人称だ。東頸城の方言であれば「おら、強いからじゃない。弱いスケ突っ込むしかないんだわ。さいわい、親からもらった頑健無比な身体があるスケ」という感じになるはずだ。

丁寧に読んでいくと後半に屋久島生まれの日高上飛曹が森崎中尉に語る場面がやはり岡山弁になっている。「わしはな、森崎さんよ。島に育ったおかげでな、しんそこ海に惚れた。そしてな、海軍の飛行機乗りになったおかげでな、ずうっと海の顔を見て、きょうまで生きてこられたでなあ。思い残すことはなかとですよ」

 当時の海軍下士官はみな岡山弁になったのか?兵学校の影響で広島弁が標準になったのか?

 どうも会話に違和感を感じてしまう。もっともこの「六機の護衛戦闘機」は小説仕立てであるので文句を言うわけではない。よく取材されていると思う。そのまま田舎出の杉田を感じていればいいのだが、たまたま同郷なので気になるだけなのだ。

 後日、方言に関して調べてみると、明治政府は徴兵制をしくに当たって方言をなくすことに相当努力したことがわかった。命令が伝わらないと作戦遂行に支障が出てしまう。戊辰戦争では、薩摩の侍が士官クラスとして全国の藩から徴募した兵で官軍を率いたが、いろいろな齟齬があったことが想像される。軍隊では、標準語を話すことが強制され、昭和時代まで続いたという。特に海軍では、兵器を扱うために言語の標準化が必死で独特の海軍ことばが使われた。イギリス海軍を範としたため英語を基にしているのが特徴である。








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