川西 強風 N1K1 (1942)
第二次世界大戦前、アメリカから石油等の経済封鎖にあったことで東アジア方面への侵攻が日本にとって重要な戦略となった。東アジア方面の島嶼を基地として制空権を得ることが必要である。陸上基地に頼らない水上機で陸上機なみの戦闘機があったら・・・ということで海軍は他国には類のない水上戦闘機を構想した(水上機はたいがい偵察機であった)。構想されたのが十五試高速水上戦闘機の企画で、水上機を得意とした川西航空機が受託することになった。同時に零戦を生産していた中島飛行機にも、零戦を水上機化するように海軍から下命があった。中島飛行機も水上機製作経験があった。結局、水上戦闘機はこの2種類しか生まれなかった。
約二年間かけて昭和17年8月に試作1号機が初飛行する。単フロート式で水上滑走時に波の影響を避けるために中翼構造であった。翼断面は、東京帝国大学の谷一郎教授の発明した「高速LB翼」である。最大圧位置を従来型翼より後方へ動かし、急激な圧力上昇を緩和することで乱流の発生を遅らせることができ、高速での安定性を得ることがねらえる。LBはライトブルーの略で、東大のスクールカラーだった。「高速LB翼」は、一般には層流翼として知られているが、日本では「強風」にはじめて採用された(アメリカのマスタング戦闘機も層流翼を採用し、高速性を得ている)。また、高速だけではなく空戦性能を高めるため空戦フラップを採用した。どうしても陸上機よりも重くなり、しかも空気抵抗も増すため、手に入る最大のエンジンである火星13型を積んで、馬力でカバーしようと考えた。馬力を伝えるプロペラがトルクにまけてしまう恐れがあったため二重反転プロペラを採用した。のちに三挺プロペラに変更したが、やはり強力なトルクに悩まされた。また、尾翼の振動がひどく、大きなフェアリング(翼と胴体のつなぎめにある整流カバー)をつけることで解決する。
数々の新規軸を盛り込んだため、不具合の調整に時間がかかり、改修に一年を費やした。その一年で、戦局は大きく変わってしまう。ミッドウェイ海戦後は防衛にまわるのみ、昭和18年12月21日に制式採用されたが、その時点では侵攻作戦は必要なくなった。また、中島飛行機が開発制作を担当した零戦を改造した水上機、二式水上戦闘機がすでに前線で活躍しており、出遅れた水上戦闘機となってしまった。バリックパパンでの作戦で活躍したという記録が残されている。しかし、B29による本土爆撃が迫ってきた頃に再度お呼びがかかった。乏しい高空戦力を少しでも補うために基地防空任務で配備されたのだ。『敵機に照準』(渡辺洋二、光人社)に、数少ない『強風』での本土防空戦が語られている。全生産数は89機であった(97機という記録もある)。
しかし、『強風』の役目は終わっていなかった。『強風』がもつポテンシャルの高さに、陸上機化が考えられたのだ。同じエンジンをのせた局地戦闘機の『雷電』や零戦の後継機『烈風』がもたついている中で、『強風』はフロートをとって脚をつければすぐに大馬力の局地戦闘機になる。戦局は逼迫していて、時間はない。誕生したのが『紫電』そして『紫電改』である。
『強風』
全長 10.58m
全幅 12.00m
全備重量 3,500kg
発動機 三菱 火星一三型 (空冷星型1,460hp)
最高速度 490km/h
航続距離 4.8時間
武装 7.7mm機銃×2、20mm機銃×2 30kg爆弾×2
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