見出し画像

杉田庄一ノート21:宮崎勇さんの記録その2<海軍の階級>〜「還って来た紫電改」(宮崎勇・鴻農周策)

 「還って来た紫電改」の中に「階級と部隊編成」という章があり、当時の海軍航空隊の階級を知る上で参考になる。それまでは四等水兵からスタートしていたが、戦時体制になり階級を陸軍と合わせるように大きく変わることになった。戦記を読んでいる時に混乱することがあるが、この文を読むと整理される。

「下から昇進してゆく順番を記すと、つぎのとおりになる。
<兵>
 •二等飛行兵(ニ飛)

 •一等飛行兵(一飛)
 •上等飛行兵(上飛)
 •飛行兵長(飛長)
<下士官>
 •二等飛行兵曹(二飛曹)

 •一等飛行兵曹(一飛曹)
 •上等飛行兵曹(上飛曹)
<士官> 
 •飛行兵曹長(飛曹長)・・・准士官

 •少尉、中尉、大尉 
 •少佐、中佐、大佐
 •少将、中将、大将
  昭和十六年当時は、ニ飛曹の下に三飛曹という階級もあつたが、廃止された。
 実戦上の機能•役割としてみると、
 ☆出撃する隊(通常数小隊で構成) を率いる
 「飛行隊長」……飛曹長〜大尉クラス
☆航空隊全体の飛行計画、指揮にあたる
 「飛行長」(航空隊に一人)……少佐〜中佐クラス
☆その上に「司令」(一人)……航空隊の総合責任者、大佐クラス
☆司令を補佐する「副長」がおかれることもある
 たとえば「ニ五ニ航空隊」の場合(昭和十七年九月現在)、〔司令〕柳村義種大佐、〔飛行長〕舟木忠夫少佐、〔飛行隊長〕菅波政治大尉、という陣容だった。

 日本海軍はイギリス海軍を範として組織された。イギリスの階級社会を投影するようにイギリス海軍の職階はとても厳しいものだった。日本海軍も同様に下士官・兵と将校の間には特権階級と庶民のような差があった。また、下士官・兵の中でもより凄惨な階級による身分社会が構成されていた。士官になるには通常であれば海軍兵学校を出なければならず、現在でいえば東大以上の学力と体育大学なみの運動能力を併せ持っていなければならなかった。海軍は徴兵よりも志願を優先しており、二十歳前(徴兵前)の若者が多く入隊を希望したが、試験もあり相応に難しかった。海軍で過ごした年数はマークでわかる。階級だけでなく長く海軍で過ごしたものは例えは悪いが牢名主のような威厳があった。上から下への命令は絶対であり、服従させるための鉄拳制裁が日常的に行われていた。下士官・兵の戦記を読むと戦闘場面だけでなく必ずと言っていいほど海兵団での訓練や赴任してからの「鬼の○○」とか「地獄の○○」(○○には部隊名や軍艦名が入る)というように制裁の厳しさが記述されている。

 杉田は、ちょうど制度が変わる時期にわたって海兵団に入団したので、四等水兵からスタートしている。まちがいなく海兵団での激しい鉄拳制裁の中で海軍生活をスタートさせたと思われる。私の父も昭和18年に舞鶴海兵団に航空整備兵として入団した。すでに高等小学校しか出ていない水兵の中から航空兵を育成する時間的余裕がなく中学校卒業者による甲種予科練や予備学生などの大量即成時期に入っており、父が搭乗員を目指す道は厳しくなっていたと思われる。高等小学校卒で海軍受験をした杉田は15歳の最年少で航空兵(おそらく整備兵でスタートした)になり、内部選抜で搭乗員養成課程に進むことができた。

 戦時の昇進は早い。平和時であれば数年かけての昇進が戦時では数ヶ月になる。また、作戦に従事すると昇進が早くなる。さらに飛行兵は毎回の戦闘が作戦並みにカウントされ昇進が一層早い。杉田は、二年間の実質的な航空隊での戦闘で20歳でありながら上飛曹になっていた。下士官・兵の最上位である。戦死後に二階級特進で、飛曹長をとばして少尉となっている。

 戦争前の平時では、水兵から下士官に任官するのに最短で約4年半、准士官まで昇進するのには最短で約12年半を要したという。専門教育をうけるための学校にも行かねばならず、実際には兵曹長(准士官)までに15年程度を要した。准士官になると下士官や兵とは完全に扱いが変わり、支給品などもなくなり食事や服なども個人経費で調達しなければならなくなる。それだけ俸給も高くなるということだが。飛行隊では、その専門性や文字通り一騎当千の軍事的な価値から一般兵とは異なるかなり早いキャリアパスを与えられていた。杉田は20歳で下士官の最上級である上飛曹まで到達していた。

「還って来た紫電改」には、編隊の編成についても記述されている。昭和17年当時は3機で編隊を組むことになっており、一番機は編隊長で士官あるいは下士官先任がなる。先任というのは同じ位階であれば先に任官したものを指す。二番機は下士官の上位のもの、三番機は次位という編成であった。昭和18年に入り、ミッドウェイ海戦のラバウル航空戦が激しくなる頃から3機編隊から4機編隊に変わっていく。以下のように記述されている。
 「二五ニ空は、菅波大尉のもとで、新しい空戦法の仕上げを急いだ。その新戦法というのは、アメリカの戦闘機グラマンF4Fに対抗する「編隊空戦」である。 この空戦法はじつは、私たちがいた横浜航空隊ですでに訓練していた。指導していたのは、横空飛行隊長の花本清登少佐である。少佐は前線からの報告を間いて、「グラマンは、零戦一機に対してニ機以上でかかってくる」「攻撃をしかけてくるグラマンはオトリ。その上空には、かならずニ、三機が待機している と思って気をつけよ」とつねつづね、私たちに話していた。
 そこで、新しい戦法として、「これまでの一個小隊(区隊ともいう)を三機編成から四機編成に」、「一番機と三番機、二番機と四番機がペアを組んでニ機不離の原則を守る」という方式を考えだした。
 実戦では、一機が攻擊をしかけるときは、かならずもう一機がすぐ上空にいて上方をカバーする。また、空中戦のあいだに小隊がバラバラになっても、このニ機だけはペアを崩さな い……横空で、そういう訓練を重ねていた。
 私がニ五ニ空へ転属になったのも、このあたりに理由があったらしく、菅波大尉が横空に来て、「編隊空戦を仕込まれている宫崎をニ五ニにくれ」と言ったそうである。
 ニ五ニ空は当初、日本海軍伝統の「三機で一個小隊」の編成を甚礎にしていたが、横空からの提案で「ニ機ペアの四機編成」に変更され、実戦でのさまざまな状況を想定しながら、 アメリカに対抗する戦法に取り組んだわけである。」

 空中での戦闘は、日中戦争当時のヒラリヒラリと身をかわしながらの空戦からスピードを生かした一撃離脱方式に大きく変わっていく。特に1940年頃からの欧州航空戦が航空機同士の戦闘を編隊空戦中心に大きく変えていた。この時点で実は零戦のような軽戦闘機は時代から取り残される運命にあった。しかし、太平洋戦争開戦当時はアメリカの軍用機もまだ欧州航空戦に巻き込まれる前のもので零戦でもかなり優位に戦えたのだが、すぐに速度と頑健さを増した新時代の戦闘機に置き換わり、編隊空戦が主流になる。この編隊空戦は、1938年のスペイン内戦でドイツが編み出したロッテ方式といい、編隊長と僚機(列機あるいはウイングマン)の2機が1組になって常に行動を共にする。2つのロッテが組んで1編隊(シュバルム)として動くが、戦闘になるとロッテで行動することが多い。それまでの3機編隊のときは編隊長が第一撃をするとつぎつぎに2番機、3番機と続けて攻撃をし、そのあとは個人ごとの空戦に入ることが多かったが、ロッテでの編隊空戦では、僚機は編隊長にあくまでついて行動を共にすることを原則とした。2機の行動がピッタリ一致するような訓練を日頃から積み重ねておくことが重要になる。杉田が「俺の愛する列機」と笠井さんを呼んで日頃から常に行動を共にしていた理由がわかる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?