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杉田庄一ノート22:宮崎勇さんの記録その3<搭乗員の速成教育>〜「還って来た紫電改」(宮崎勇・鴻農周策)

 その2に引き続き、海軍航空隊搭乗員の養成について『還って来た紫電改』を参考にノートする。

 昭和18年以降、海軍航空隊の搭乗員が劇的に不足する。それは大きく二つの要因が考えられる。「死生観」と「日本海軍のマネジメント」である。

 国のために死ぬことを美談とした軍事教育が昭和時代にはいってから続いていた。特に日中戦争が長引く中で育った世代はその傾向が強く、戦場で武勲をたてることが人生の目標となるように育てられた。個人ありきではなくまずは国ありきなのだ。戦場では捕虜となることを不名誉とし、潔く死ぬことを『戦陣訓』で叩き込まれた。そのため空戦においても、基地まで戻れない機の損傷があれば『自爆』することが当然とされていた。飛行機自体も、防御を潔しとせず防弾用の装甲板をあえてはずしていたり、落下傘をつけずに出撃したりというエピソードが残っている。戦記や戦史などを読むと日本の飛行機の『自爆』が目立つ。敵に撃墜されたのもみな『自爆』と記録された。当然、自分が深傷をおったりすれば、敵の飛行機や敵基地、あるいは敵軍艦に体当たり自爆することが当然と考えていたのだ。ミッドウェイ海戦ではアメリカの空母と日本の空母が四つに組んでの航空戦となった。両軍のパイロットは死闘を繰り広げた。開戦後、その経験を積んだサバイバーがアメリカ軍には多くいて、以後の航空隊のリーダーになっていった。ところが、日本側にはほとんどサバイバーがいなかった。アメリが軍では、一人でも多くのパイロットを吸湿するためのシステムが出来上がっていたのに対し、日本側では多くのベテランパイロットが、潔く『自爆』してしまったのだ。ミッドウェイ開戦後、日本海軍ではベテランパイロットが劇的に不足したのだ。

 アメリカでは戦前から車社会が発達しており、自動車の運転をできる若者が多くいてそのインフラも整っていた。それがそのまま飛行機産業や飛行機パイロットの養成につながっていった。ところが日本では、飛行機どころか自動車さえ珍しいという時代であった。当然、飛行機のパイロットは普通の人が慣れるものではなく、選抜された一部の優秀な者しかなれなかった。平和の時代の軍隊であればそれでもいいが、戦時となればパイロットの(言葉はきついが)消耗は当然考えなければならない。また、日本の軍隊は階級制度に縛られており、隊長だけで戦うわけにはいかないので下士官や兵のパイロットも養成しなければならない。そもそもパイロットの養成には、高等教育を受けていない兵に対しては技術だけでなく学科の勉強も多く年単位で時間がかかる。さらに悪いことに日本海軍は、艦隊決戦を主とする考え方が太平洋戦争直前まで主流であり、山本五十六が海軍本部長になった頃からようやく航空戦という考え方が出てきた段階なのだ。太平洋戦争が始まっていてもまだ艦隊決戦のための傍系と考えている指揮官が多く、後に致命的と判明するような作戦面でのミスが積み重なっていた。太平洋戦争直前からパイロットの養成が急遽課題となり、大量採用をするようになった。しかし、ミッドウェイ以降に航空戦が戦争の主流となったことが誰にもわかり、さらに大量のパイロット養成をやみくもに行わなければならなくなった。まさに泥縄式の取り組みになった。そのへんのことを『還って来た紫電改』で宮崎さんは次のように書いている。

 昭和十八年から十九年にかけて戦況が切迫し、第一線のパイロットが、どんどん戦死する。指揮官もあいついで死んでゆき、事態は日に日に深刻になった。要するに、パイロットが足りなくなっていったのである。
 そこで、「予科練」や「飛行予備学生」の教育も、訓練を短縮して戦地に出す。あるいは、大量に入隊させるという、今思えばずいぶん荒っぽい速成教育になっていったのである。
 えらそうに言うつもりはまったくないが、航空隊パイロットは、飛行機を操縦して、この飛行機で戦闘する——ということは、飛行機という精密機械、今の言葉で言えば「メカ」を知り、使いこなし、広い洋上でも迷わないような「航法」を身につけ、しかも、やるかやられるかの空戦で、正確な操縦をしながら銃擊して勝ち残らなければならない。高々度での寒さや酸素不足、疲労、あるいは、ただ1機で飛んでゆくときの孤独にも耐えなければならない。
 ちゃんとした。パイロットになるには、素質がある人間でも、ある一定の訓練時間と実戦の経験が必要だと、私は今でも思う。
 しかし実際には、そんなことは言っていられない状況になったようだ。たとえば予科練の甲種十期ーーー昭和十七年四月の入隊だが、練習生の大半は、一年ニ力月の学科教育、そのあと「赤トンボ」(九三式中間練習機)で五力月の飛行訓練、それに実戦機に乘る延長訓練を二力月。教育期間はニ年をきっていた。
 しかも、同じ甲十期でも、笠井智ー君(伊丹市在住•昭和二十年に三四三空で私と同じ隊)など一部の隊員は、「赤トンボの練習をおわったあとの延長訓練はわずか二十日ばかりで、さっさと実戦部隊に出された。あとは実戦をやりながら、練度をあげるしかありませんでした」と話している。 また、十八年春に急遽つくられた「特乙」といぅ課程の一期生となった田村恒春君(栃木 県在住•終戦時に三四三空)は、「昭和十八年四月から十月まで半年ばかりが学科教育。その後、十九年一月まで台湾で赤トンボによる飛行練習。二月から五月まで、零戦など実戦機の延長訓練ーーー以上の一年そこそこで特乙としての教育が終わって、横須賀航空隊に配属された。ともかくバタバタと教育を受けた」
と語っている。
 さらに、「海軍飛行科予備学生」(初期は「航空予備学生」と呼んだ)という制度があった。この制度は、もともとは、「戦争になったときは、どの国でも優秀な多数の士官が必要になる」との考えから、平時(戦争がない時期)から、 そうした人材を育てておくものである。
 大学予科、専門学校、高等学校(高等科)の卒業生またはその見込みの者を対象に採用して、搭乗員(操縦、偵察)の士官候補を養成した。採用と同時に海軍少尉候補生という身分になる。
 教育期間は、八期(昭和十六年入隊)までは約一年だったようだが、そのあとは一年半になったり、一年三力月になったりしている。この「飛行科予備学生」は最初は採用者が少な くて、創設期の昭和九年に六人ではじまり、十二期まで(〜十七年)は、一期あたり百人以下であった。
 しかし、戦局の切迫、兵力の不足から、幹部教育本流の海軍兵学校出の士官だけでは、前線の少尉、中尉クラスの指揮官が間にあわなくなった。そこで、昭和十八年には、海軍が予備学生大量募集の「大キャンぺーン」をくりひろげた。予備学生たちが母校をおとずれて、後輩の生徒たちに、『来たれ!海軍へ! 」と訴え、その熱情に刺激されて、ぞくぞくと予備学生に入隊した若 い人たちも多かった。また、これまでは対象になっていなかった師範学校卒業生にも採用資格をひろげて大幅に採用者を増やした。その結果、この年の入隊者(十三期)の数は、約四千八百人にのぼったという。
 あくる十九年の十四期は、約ニ千七百人が入隊。これは、前述の学徒出陣で、大学生や専 門学校の生徒がこぞって海軍にも入ったためである。「ペンを持つ手に操縦桿を握る」ことになった飛行科予備学生は十九年一月に入隊。基礎教育四力月。赤トンボの訓練を四力月。実用機訓練五力月——計一年一力月。その間に少尉または中尉になり、訓練が終わりしだい戦地に飛んだのだった。
 大量に増員した十三期.十四期ともに、そのほとんどが特攻要員になった。十三期と十四期あわせて特攻戦死は六百人をこえている。」

 戦時のパイロットが不足することは海軍上層部はわかっていた。しかし、これほどまでに足りなくなるとはおもていなかったし、これほど早くアメリカの反攻があるとも思っていなかった。多くのパイロットが十分な訓練をされないまま前線に送られた。さらに悲惨なのは、操縦がおぼつかないのに速度の出ないそして攻撃力の全くない練習機で特攻に生かされた者も多いのだ。成功することはありえないし、それがわかっていても士気を高めるため?相手を恐怖に陥れるため?という目的で特攻作戦が続けられた。

 宮崎さんの記述に出てくる田村恒春さんは、実は杉田庄一の区隊四番機であった。杉田から「タムタム」と呼ばれ可愛がられ徹底的に編隊空戦を仕込まれた。編隊空戦の訓練について田村さんは、「343空隊史」にその思い出を載せている。翼端から飛行機雲が出るくらいのスピードでの編隊飛行を繰り返し、実践に則したたいへん厳しいものであったという。なかなか編隊についていけないため地上に降りると見ていたS少尉から叱られたそうだ。しかし、杉田からもまた先輩である二番機の笠井さんからも叱られることがなく指導されたと書いている。海兵団から予科練とゲンコツで分からせることが当たり前の日常だったのにこの区隊ではゲンコツが飛ぶことがなかったのだ。笠井さん自身も杉田から殴られたことがなかったことを記述しており、自身も杉田にならったのだろう。S少尉というのは・・・坂井三郎かと思われる。





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