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杉田庄一物語 その69(修正版) 第七部「搭乗員の墓場」 ラバウルは搭乗員の墓場

 五月八日、旗艦「武蔵」艦上で連合艦隊作戦会議が開かれた。席上、古賀峯一連合艦隊司令長官は、
「日本海軍の兵力は米海軍のそれの半量以下で、勝算は三分もない。活路を見出すためにマーシャル、ギルバート方面で、玉砕を覚悟で艦隊決戦を行う」

と、訓示した。威勢の良い精神論はなく、現実をとらえ冷静に分析し判断しての言葉だった。

 古賀長官は、山本前長官の二期後輩で海兵三十四期、軍令部畑をおもに歩いてきたが山本五十六や井上成美とも親しく、井上は「非常にものの判断の正しい人」と評している。大柄で口数は少ないが信頼される提督であった。ただ、航空部隊の指揮をとった経験はなかった。

 作戦会議が開かれた日に出鼻を挫くような出来事があった。コロンバンガラ島に人員、物資を輸送していた第十五駆逐隊の三隻の駆逐艦「親潮」、「黒潮」、「陽炎」が同島南西方面のブラッケット水道で米海軍の敷設した機雷のため三隻とも沈没したのだ。

 二〇四空の五月一日から二十三日の記録を飛行機隊戦闘行動調書で追ってみる。( )内は指揮官。

 五月一日「ブインからラバウルへ帰投」二十四機(宮野善治郎大尉)
 二日「リンデン往復飛行艇直掩」六機(白川俊久一飛曹、田中利男一飛曹)
 三日「ムンダ方面敵機激擊」二十四機(宮野善治郎大尉)
 同三日「飛行艇直掩」三機(岡崎靖二飛曹)
 四日「ブインよりラバウルへ帰投」十二機(森崎武予備中尉)
 同四日「ブカよりラバウルへ帰投」十二機(宮野善治郎大尉)
 八日「B17調査隊誘導兼上空哨戒」三機(杉原眞平一飛曹)
 九日「ブイン進出」十八機(森崎武予備中尉)
 十一日「ブインよりラバウル帰投」三機(日高初男飛曹長)
 十二日「ブナカナウ上空哨戒」二機(宮野善治郎大尉)
 同十二日「ブインよりラバウル帰投」十二機(森崎武予備中尉)
 十三日「敵機激擊」二十一機(宮野善治郎大尉)ルッセル島上空大空戦
 十四日「不時着搭乗員救助水偵直掩」六機(岡崎靖二飛曹)
 十五日「基地付近敵機邀撃」二十二機(森崎武予備中尉、宮野善治郎)
 十六日「夕霧上空哨戒」五機(森崎武予備中尉)
 十七日「夕霧上空哨戒」六機(日高初男飛曹長)
 同十七日「カビエンよりラバウル帰投」五機(森崎予備中尉)
 十九日「ワウ方面索敵邀撃」十二機(宮野善治郎大尉)
 二十日「輸送機直掩」六機(坪谷八郎飛曹長)
 二十一日「輸送機直掩」三機(岡崎靖二飛曹)
 二十二日「スルミ方面邀撃」十八機(鈴木博上飛曹、岡崎靖二飛曹、辻野上豊光上飛曹)
 二十三日「ニューブリテン上空移動哨戒」二十四機(森崎武予備中尉、大正谷宗市一飛曹、渡辺秀夫上飛曹、宮野善治郎大尉)
 同二十三日「陸攻直掩」六機(日高初男飛曹長)
 二十四日「スルミ方面敵機邀撃」十五機(宮野善治郎大尉、渡辺秀夫上飛曹)
 二十五日「陸攻直掩」六機(日高初男飛曹長)
 このうち杉田が編成に入って出撃したのは、一日、
九日、十五日、十九日、二十三日、二十五日の六回でいずれも空戦は行っていない。

 十九日はニューギニアの内陸部「ワウ」にできた米軍の秘密飛行場の索敵であった。高原の森林地帯を切り開いた小さな飛行場に双発機一機と小型機数機が待機していたのを確認した後、フォン湾に停泊中の小型船舶を銃撃し、小型輸送船一隻炎上、内火艇二隻、帆船一隻撃破の戦果をあげている。

 五月十二日、米軍がアリューシャン列島のアッツ島に上陸する。約一万五千名の米軍に対し、約三千名の日本軍は圧倒的な兵力差に苦戦し、五月三十日に残存兵力約三百名でバンザイ突撃をして全滅する。このとき大本営は、「アッツ島玉砕」という言葉を使う。この後、「玉砕」という言葉が終戦まで、戦術的敗北場面で続々と使われるようになる。「玉のように美しく砕け散る方がむしろ名誉であり、単なる瓦として生き永らえることはできない」という意味で、美しい言葉で飾って「全滅」のイメージを変えようとする大本営報道の常套手段となった。しかしどんなに美辞麗句で飾っていても、いよいよ日本が負け出したという実感が国民に広がっていくことになる。

 五月十三日、前述のように米軍の航空部隊の動きが積極的になってきたことから、二〇四空、五八二空、二五三空を合わせて約七十機でルッセル島に集結している敵航空兵力を叩くこととなった。杉田はこの日の編成には入っていない。

 総指揮官は、宮野大尉。これだけの大編隊を一斉に動かすのは至難の技であり、隊長機の力量が問われた。編隊は乱れることなく高度八千メートルでルッセル島西側を一航過し、ガダルカナル島前方で大きく右旋回した。ルッセル島上空で敵編隊約六十機と遭遇し、大空戦となった。

 二〇四空では、二十六機撃墜の戦果があった。未帰還は野田隼人飛曹長と刈谷勇亀二飛曹の二機だった。大原二飛曹も激しく被弾しながらもF4U戦闘機を二機撃墜し、かろうじてコロンバンガラ島の不時着場に着陸している。大原は、三十八発の被弾と大きく穴のあいた右翼の燃料タンク、燃料バランスの崩れた零戦で着陸し、宮野や玉井副長から誉められ、特別善行章をもらっている。

 五月中旬からは連合国軍の飛行場の整備が終わり、航空部隊による攻撃の激しさが増してきた。出撃するたびに空戦になる。空戦が多くなってきた背景に、米国の航空機増産体制が軌道に乗り、前線に新鋭機が続々と配置されてきたことがある。

 新鋭機だけでなく、開戦のあと「リメンバー・パールハーバー」の言葉のもとに続々と志願した米国の若者たちが新人パイロットとして育ち、前線に出て来るようになった。前線での激しい戦闘のあとは休暇をとって元気を取り戻し、再び前線に戻って来るというシフト制も確立していた。日米のこの差こそ、山本長官がずっと懸念していた「国力の差」だった。

 米国内での航空機増産を背景に、連合国軍航空部隊は続々と航空兵力を増強していた。連合国軍航空部隊は、ヘンダーソン基地に爆撃機用の滑走路が整備されたためB17やB24などの爆撃機の配備を進めた。また、F4U戦闘機やP38戦闘機など陸上戦闘機も増強されていく。

 F4Uは、もともとは艦上戦闘機として設計されたのだが、初期型は空母からの発進に難があり、この時期は海兵隊専属の陸上戦闘機として用いられていた。これらの増強された航空兵力をもって日本軍の拠点に昼夜を問わず連日空襲をかけてくる。エアソルスによる五月中の空襲はムンダにのべ五百十六機、コロンバンガラ島にのべ三百六十七機、レカタに二百六十三機、ブイン、バラレ、ショートランドにのべ合計百八十一機、ラエに二百六十四機、サラモアに四百四十四機、フィンシュハ—フェンに四十三機、ラバウルに七十九機と米軍資料に記録されている。ソロモン空域の航空戦は壮絶な戦いになっていった。

 そんな中、二〇四空も戦果をあげるが、次第に戦死者が増えていくようになる。「明日は我が身」という開き直りで、搭乗員たちは戦死者への思いを断ち切るようになる。出撃のあとは酒を飲んで気持ちを切り替え、翌日また出撃するという過酷な日々になっていく。「死ぬまでラバウルで戦わねばならない」「ラバウルは搭乗員の墓場」という言葉が囁かれるようになった。

<引用・参考>

国立公文書館アジア歴史資料センター


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