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杉田庄一ノート19:宮崎勇さんの記録その1<搭乗員への志願>〜「還って来た紫電改」(宮崎勇・鴻農周策)

 「還って来た紫電改」は、宮崎勇さんと鴻農(こうの)周策さんの共著となっている。宮崎勇さんは元343空の搭乗員(パイロット)で、鴻農さんは元NHK松山市局のディレクターだった。この本は、鴻農さんの後押しによって宮崎さんが戦争体験を記録したものだ。鴻農さんは、末期ガンに犯されながら現場で働き続けた方で残念ながらこの本の刊行前に亡くなられた。刊行は平成5年で戦後50年をまもなく迎えようとしている時だ。

 そもそもこの記録を書くことになったのは、松山市のタウンジャーナルの記者が松山空港周辺にある掩体壕跡をみて「これはなんだ?」と思ったことからである。記者たちは戦時中に343航空隊があることを知り、松山市に在住する元343空搭乗員の宮崎さんにたどりついた。宮崎さんは戦後香川に帰郷するが、縁のある松山市に戻り酒屋を営んでいた。激戦のラバウル航空戦で活躍し、ベテランパイロットとして343空に加わり激戦を戦い抜いたが、戦後はそのことを話すこともなく過ごしていた。しかし、城辺町で紫電改が引き上げられる件にかかわることになり、体験を語るようになったという。そして、この本が書かれることにつながったのだ。

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松山飛行場週へに散在する掩体壕跡(2021.7.24)。掩体壕については、「松山飛行隊跡地に行ってみた」という記事を書く予定である。

 宮崎さんは、予科練(丙飛2期)の出身でラバウル、そして343空戦闘301飛行隊と杉田と同僚だった。杉田も予科練(丙飛3期)で宮崎さんの1期後輩になる。予科練は、甲種、乙種、丙種と別れていて、実はもっとも歴史のあるのが操縦練習生制度(操練)から呼称を変えた丙種である。(戦争拡大により搭乗員が大量に必要となり、予科練(予科練習生)制度が生まれた。予科練には、甲種(中学校卒程度)や乙種(高等小学校卒程度)があり、それまでの操練は丙種となったのだ(詳細は後述)。操練は水兵からの内部志願制で試験をパスして操縦練習生になるため、選りすぐりの人材が集まった。丙種予科練生はその数が少ない上に最前線にたっていたのでサバイバーは少ない。宮崎さんの描かれた本の記述は、杉田の訓練生時代から前線での様子を知る上で貴重となる。

 宮崎さんは昭和11年、香川県の旧制丸亀中学を中退し16才で海軍を志願する。その経緯を次のように記している。
「当時の少年にとって、中学を途中でやめて海軍や陸軍の学校に入り軍人になリたいと思うのは、しごく当たり前のことだった。
 今の世の中で、とくに若い人たちは「軍隊」が好きだという入は大変少ないであろうし、 むしろ反発を感じる人が多いかもしれない。が、当時は「軍国教育」が徹底していた。丸亀中学にも、陸軍の大尉が二人いて、軍事教練などをする。
 われわれも小学校の頃から、将校が馬に乗って悠々と行くのなどを見て、「ええなぁ!」 と理屈ぬきで憧れたものだ。
 軍隊の中でも、なぜ海軍にいったかというと、おやじが兵役で海軍にいたうえ海軍工廠で働いていてなんとなく親しみがあったからだ。
小学校のある優秀な同級生の父親が海軍少佐だった。ある日、先生が、「大きくなったら 何になる?」とみんなに訊ねたとき、「海軍大将です!」と、彼が大きな声で答えたのか非常に強烈な印象で、そんなことに影響されたことも大きい。
 それに、あの時代は、「どうせ、はたち過ぎれば徴兵にとられるんや。それなら自分の志願で行った方がいい」という気持ちも、大いにあったと思う。
 それと、中学一年生のときだったが、アメリカの曲芸飛行団がやってきて、善通寺(香川県)の練兵場でアクロバットのショーをやった。
 ワクワクしながら見物して、そのスマートさというか、空を自由自在に飛ぶのを見て、単純に空や飛行機に憧れたということなども、いま、思い出す。」

 当時の多くの子供たちは、自然な流れとして軍人を目指していた。国のために自分は生きているのだというアイデンティティーの中で育っていた。勉強するのも体を鍛えるのも、そして成長することも「大人になることは良い軍人となって国のために尽くすこと」と教えられていたのだ。
 山の奥深い集落で生まれ、海を見ることなく育ったと思われる杉田に海軍や海軍飛行隊を目指すきっかけは何だったのだろうか。高等小学校での配属将校の影響なのか、海軍の徴兵ポスターを見て憧れたのだろうか。杉田は高等小学校を出て安塚農学校に入り、その年の6月に舞鶴海兵団に入団している。試験はおそらく前の年の12月中、つまり高等小学校6年時に受けているはずだ。そのあと、入団までの所属として安塚農学校に入学したのだろう。最終的に海兵団に入るまで検査で落とされる可能性が続くのだ。

 宮崎さんは佐世保海兵団に入団する。海兵団とは、海軍の新兵を教育するところである(四国や九州の出身者は佐世保、関西や中国地方は呉、関東から北は横須賀、北陸地方は舞鶴であった)。宮崎さんは、佐世保海兵団で半年、水兵の新兵教育を受ける。軍艦「磐手」の水兵になり日中戦争に参加、アモイ攻略戦に参加する。その後、海軍航海学校で「操舵」を専門に学び軍艦「熱海」で揚子江の機雷掃海にあたる。水兵としてのキャリアを積む中で、ある大尉から航空科の試験を勧められ、受験することになる。

 水兵から搭乗員になる道は操縦練習生制度(操練)の試験を受けることだ。多くの海軍志願兵の憧れであったが、筆記試験は旧制中学校卒業程度の物理や数学、作文、面接試験があり、運動適正も厳しく審査され難関であった。下士官や先輩などから妬まれ、勉強したくても勉強できずハンモックに懐中電灯を持ち込んで寝る間を惜しんで勉強したという話もある。宮崎さんの手記には特段苦労したという話はのっていない。ただ、易断の先生が試験場に来て受験生の顔の相や手相を見ていたのを覚えていると記している。このエピソードは、阿川弘之の「山本五十六」にも出てきており、あまりに航空搭乗員の訓練での殉職が続くために水野義人という骨相を観る嘱託として雇用していたという。

 丙飛2期は、昭和15年11月から2ヶ月くらい茨城県の霞ヶ浦と土浦の航空隊で学科の勉強をする。その後、百里原航空隊と大分県の宇佐航空隊で11ヶ月近くの飛行訓練を受ける。この百里原航空隊は攻撃機搭乗員の養成を専らとしていたので、宮崎さんも最初は艦爆乗りとして訓練されていた。しかし、戦闘機乗りが足りないという事情から昭和16年11月に横須賀航空隊に配属されてから戦闘機専従として訓練を受ける。米英との戦争回避が難しく、日中戦争での用兵から米英との航空戦を想定したものに戦術変更があったと思われる。この頃は、すでに欧州戦線での連合軍対ドイツ軍の壮烈な航空戦の情報がはいっており、急いで航空戦略を練り直している時期だった。これまでの数十人単位の搭乗員養成では間に合わず、1000人単体の養成を大急ぎで行うことになる。先述のような予科練の充実もされたのだ。

 杉田は、宮崎さんの3ヶ月後、昭和16年の2月28日に第3期丙種予科練として土浦の航空隊に入隊する。そして2ヶ月後の4月28日には練習生教程を卒業している。ただよくわからないのは、杉田の履歴書である。昭和15年6月1日に海軍四等航空兵として舞鶴海兵団に入団していることが記されている。同年10月15日に海兵団を終えて鹿島海軍航空隊に転勤を命ぜられ、三等航空兵になっている。航空兵はそのまま搭乗員になれるわけではなく整備兵も航空兵の扱いとなる。このあと航空兵の呼称はなくなり、飛行兵と整備兵に別れる。杉田の履歴書には昭和16年10月1日に二等整備兵と記され、11月29日に大分空(配変)とだけあり、17年3年3月31日に(卒)二ヒと書かれている。これは、杉田が当初整備兵に所属していて三等兵から二等兵に昇進する時に呼称変更があり、二等整備兵となったと考えるのが自然だ。そして、(配変)というのは配置変更と考えると、大分空へ行った時点で戦闘機専従搭乗員となったことが考えられる。杉田は、海軍航空兵になり当初は整備兵としてスタートし、整備兵課程を卒業後に戦闘機搭乗員になったということだ。整備兵に籍をおいたまま戦闘機搭乗員過程に進んだことも考えられる。搭乗員の訓練過程は選抜を常に行っており、適性なしと判断されるとすぐに原籍に戻される。そのため、原籍を残しておく必要があり杉田はそれが鹿島空の整備兵だったのだろう。履歴書をよく見ると「16.6.1丙種ヒ予練予定者トシテ土浦空に派遣」と書いてある。このころから海軍航空隊は、なんとしてでも戦闘機搭乗者を増加する必要にせまられ、優秀な水兵を吸い上げようとして制度を毎年変更し続けることになる。

 宮崎さんは「搭乗員養成過程」に触れ下記のように説明をしている。
 「(1) 海琨兵学校コース
 海軍兵学校(海兵)を卒業したあとに、「飛行学生」として訓練——将校の指揮官を育てるトップエリートの教育課程。「飛行隊長」の大尉クラスの大部分は、この海兵出身である(343空菅野大尉、鴛渕大尉、林大尉などが海兵出身)。海軍兵学校は、有名な広島県の江田島にあって、入校資格は満十六歳以上十九歳未満(今 でいえば高校生から大学I年生の年頃)、旧制中学四年修了程度の学力。江田島での基本的な士官教育のほか。航海訓練など四年間の教育年限を終えると少尉にな る。その後、一年あまり「飛行学生」としての訓練を積んで実戦部隊に配属された。  
 (2) 操練コース

 海軍の水兵や機関科、主計科などさまざまな分野から、飛行機の操縦員になりたい者が志願し、適性検杏を受けて、「操縦練習生」(操練)になる。これも多いケースだったが、年齢はまちまちである。たとえば、現在、私と同じ松山に住んでいる磯崎千利さんは、この「操練」組である。大正ニ年の松山生まれで、松山中学を卒業して海軍にはいり、操縦練習生(十九期)になった。 昭和八年に操練を卒業して戦閫機乗りになったというから、終戦までじつに十二年を戦關機で飛びつづけ、その飛行時間は四千時間をこえたそうである。たとえば、現在、私と同じ松山に住んでいる磯崎千利さんは、この「操練」組である。大正ニ年の松山生まれで、松山中学を卒業して海軍にはいり、操縦練習生(十九期)になった。 昭和八年に操練を卒業して戦閫機乗りになったというから、終戦までじつに十二年戦關機で飛びつづけ、その飛行時間は四千時間をこえたそうである。十八年四月、少尉に昇進。二十年五月、私がいた「三四三空」(松山)に来られたが、そ のときは大尉だった。まさに「たたきあげ」の見本みたいな人である。
 この㈠㈡が、大正時代以来の伝統的なパィロット養成コースである。しかし、これだけでは数の上では知れたもので、もっと若い搭乗貝の裾野をひろげなければ…ということから、 有名な予科練「飛行予科練習生」の制度が生まれた。
 (3)予科練コース

 高等小学校修了程度以上の少年から採用して、三年間の教育をする制度からはじまった。 (昭和五年)…「乙種予科練」という。つづいて、中学四年*修了程度から採用するコースができた。(昭和十二年)…「甲種予科練」
 *当時の小学抆は、尋常小学校六年のあと、高等小学抆ニ年。高等小学抆卒業時は大体、十四歲。 また、中学は五年制で、尋常小学校(六年)を出て入学したので、 中学四年修了時は大体、十六歳だった。
 それから、私のように「丙飛」というのは、海軍にすでに入っていて、その中から志願して搭乗員になるものである。つまり「操練」コースと同じことで、私も最初は「操練五十八期」として、操縦の勉強を受けはじめた。が、昭和十六年(開戦の年)の五月に「操練も予科練に一本化して、丙飛とする」という制度の手直しがあって、十六年十一月に卒業すると きは「丙飛二期」と呼ばれるようになったいきさつがある。
 さらに昭和十八年には「特乙」といって、乙種予科練の短期養成課程ができた乙種合格者の中から十七歳以上の者を選抜し、学科・基本操縦・戦技教育をあわせて一年五力月間おこない、戦地へ出るというものだったが、実際には、 もう少し短い速成教育になったようである。
 なお、予科練といえば思い出す『若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨…」の歌にある七つボタンの制服は、昭和十七年にきめられたものである。これが海軍兵学校の制服そっくりだったことから、空に憧れる少年たちの血をさらにわかせて、予科練志願はあとをたたなかった。
 (4) 海軍飛行科予備学生(生徒)コース

 さらに「海軍飛行科予備学生」といって、大学や禅門学校の卒業生(または卒業見込みの者)から、搭乗員(操縦・偵察)の士官を養成したコ—スがある。(昭和九年〜)。また、戦局が逼迫した昭和十九年には、「飛行科予備生徒」という制度もできた。・・・」

 宮崎さんの記述からも戦局が逼迫する中で航空機搭乗員が全く足りなくなり、さまざまな制度を作って大量にパイロットを養成したことがわかる。これは日本だけでなく、戦争当事国はどの国も同じような状況であった。しかし、自動車をだれもが乗れるアメリカでは、すぐに多くの若者をパイロットとして急増させることができた。また、パイロットになればともかく全員士官となり、隊の中での序列は単純に構成されていた。日本は戦場という過酷な現場でも士官、下士官、兵の序列が厳しく、宿舎や集会所、食事なども別に充てなければならず指揮系統も経験の少ない隊長が経験豊かな下士官・兵を指揮することとなり混乱を招くことになった。日本が制度を取り入れた英国でも同じような状況が生まれていた。

 さらに年が進み戦争末期になると予科練で急増された搭乗員は、申し訳程度の操縦訓練だけで練習機による特攻に出されたり、飛行学生なのに爆弾を積んだモーターボートで特攻に出されたりした。飛行機に憧れ、難関を突破してせっかく予科練に入ったのにその悔しさは想像にあまりある。杉田は、同じくらいの年であったが高等小学校を卒業後最年少で搭乗員になったので大空で活躍することができた。それはほんのわずかな差であった。






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