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杉田庄一ノート91 「小福田皓文氏が語る杉田庄一」

小福田皓正(てるまさ)氏の本名は小福田祖(みつぎ)。皓正はペンネームである。明治42年に岡山県に生まれた、昭和6年に海軍兵学校59期卒業、戦闘機の士官パイロットになった。大村空、空母「加賀」飛行隊、空母「龍驤」飛行隊、十二空
、海軍航空技術厰でで士官搭乗員として活躍した。その後、六空の飛行隊長兼分隊長としてラバウルに出る。その時に杉田が新人搭乗員として六空でデビューしている。杉田にとって小福田はけむたい隊長としてうつっていた。小福田は、六空のあとは横須賀空で終戦まで実験機の開発などにあたり、戦後は航空自衛隊の幹部となっている。著書「指揮官空戦記 ある零戦隊長のリポート」の中で「ある日の撃墜王杉田庄一」として1節をあてている。以下に一部抜粋する。

「ある日、若い杉田飛行兵の組を訓練するため、古参の日高飛行兵曹長の組が、B17代わりの目標隊となって、指定した訓練の場所に上がっていった。
 目標隊は、決められた空域にきて、適当な高度を飛びながら、訓練隊がやってくるのを待っていた。が、訓練隊はいっこうに姿をあらわさない。いっしょに離陸したはずだが、おかしいなあ、と不審の念に駆られる。
 一方、杉田飛行兵の訓練隊ニ機は、出発のときには、目標隊の後をすぐつづいて離陸し、 訓練開始の地点に上昇していった。ところが、旋回上昇中、ふっとはるか向こうのほうに大変なものを発見した。それは、ホンモノのB17である。
 杉田飛行兵は武者ぶるいした。そして、すぐ相棒の神田飛行兵機に、敵の方向を指さしながら、大きくバンクして、これを知らせた。ニ機の零戦は、エンジン全速、まるで獲物を見つけた猟犬のごとく、B17に向かっていった。
 二人はもう、その途端に、訓練のことなど忘れてしまって、ホンモノに向かってまっしぐらに突きすすんだ。新しい攻繫法の「実物実験」をする腕だめしの機会だと、それだけで頭がいっぱいであった。
 二人は新しく教わった前下方翼の付け根ということと、衝突するぐらい接近肉薄するという二つのことだけを頭に、敵の前下方にまわりこんでいった。神田飛行兵が最初に突っ込んで、攻擊をくわえる。すぐその後、杉田機が敵にぎりぎりのところまで肉薄し、ここぞとばかり機銃を撃ち込む。
 しかし零戦とB17が、戦闘状態で向かい合って接近する場合を計算してみると、だいたい一秒問に250メートルくらいの速さで接近する。しかも、射撃は、実際は100メートル か、150メートル以内でないと、二十ミリ機銃は命中しない。だから、引き金を引いてか ら、照準をやめて退避するまでに、二分の一秒ぐらいしかない計算になる。
 杉田機が射撃した瞬問、B17の大きな機体が、まるで屋根でも落ちてくるような感じで、頭からおおいかぶさってきた。杉田飛行兵は、思わず無我夢中で操縦桿を前に突っ込み、身をすくめた。
 その瞬間、ガーンという音と、大きな衝撃をうけた。それでも、べつに異状もなかったように、杉田機はB17から離れていった。弾は当たったのかどうか分からない。だが、相手の B17は、右主翼の半分近くを吹き飛ばされ、バランスを失って、機を支えきれないらしい。 ゆるやかな右降下旋回に入り、墜落していった。
 こうして、この零戦二機は、そのまま飛行場に帰ってきた。神田飛行兵は、着陸するや大喜びで
 『おい、B公を一つ落としたぞ・・・』
 杉田機は、と見ると、飛行場着陸コースをゆっくり飛びながら、なかなか降りようとしない。地上から見ると、なんだか尾部の垂直翼が吹っ飛んでしまているようだ。方向舵がなくなっているので、思うように旋回ができないらしい。
 (まあ、方向舵だから、なんとか操縦できるだろう・・・)
と思っているうちに、ギコチない格好で、なんとか無事着陸した。
 一方、なにも知らない日高兵曹長の目標機は、指定の空域で、旋回しながら待っていたが、いつまでたっても、訓練隊の二機は、影も姿もあらわさない。とうとう温厚な彼も、頭にきた。
 『野郎たち、訓練とはいいながら、目標隊も見つけきらずにはぐれるとは、なんたることか。未熟者はまったくしょうがないな・・・』と、カンカンである。
 神田、杉田の両飛行兵は、やがて、私のところへ報告にきた。にこにこ笑いのとまらぬような顔をしているのは神田飛行兵で、殊勲の杉田飛行兵のほうは、申し訳なさそうな、さえない顔つきである。
 彼は赫ら顔の、かわいい、まだ少年の面影の残ったパイロットであるが、このときばかりは、平素から『空中衝突は絶対いけない。パイロットの恥である』とやかましく言われている手前、今日はきっと、隊長から叱られるにちがいないと思ったらしい。しょんぼりと、肩を落としてやってきた。私は彼の報告を聞き終わると、『よし、よくやった。杉田飛行兵、衝突、接触は絶対にいけないというのは、味方同士の場合のことで、相手が敵となれば話はべつだ。落とし方がどうであろうと、敵をやっつければこっちの勝ちだ。とくに相手がB17となれば、殊勲の手柄だ」と、杉田飛行兵をほめ、夕方彼の天幕に、清酒一本とどけてやった。
 そして、この機会に、私はパイロット全員を集め、平素からの持論である戦闘機射撃の秘訣を、繰り返し強調した。
 『戦闘機の射撃は、一にも二にも、”肉薄攻撃”に尽きる。敵に向かって、つねに衝突するつもりで突入、肉薄することだ。そして、もう一秒か二秒で衝突という直前に機銃の引き金を引け。引くと同時に、力いっぱい退避しろ、これでいいんだ。なまじっか、普通の射撃訓練の要領で、敵影を照準器に入れ、適当な距離に入ったところで射撃開始などというお行儀のよい優等生型の射撃では、実戦では、敵を落とせない。実戦における射撃は一にも二にも接近肉薄、ぶつかる寸前に引き金を引け。今回の杉田飛行兵のように、本当は敵に衝突しなくてもよいが、衝突するぐらいの肉薄攻撃の闘志は、じつにりっぱだ。明日からみな衝突するつもりでやれ・・・」とハッパをかけた。
 それから零戦隊のパイロットたちも、B17に対し、だいぶ自信と闘志をもって立ち向かうようになった。ともあれ、杉田飛行兵のB17の衝突突撃は、味方の士気を上げるのに大変に役立った。
 私がこの戦闘機隊の隊長をしていたころの杉田飛行兵は、パイロットとしても、まだ半人前までもいかないひよこに近いレベルであった。しかし、それから足かけ4年の歳月は、彼をしてついに日本海軍における『撃墜王の一人』といわれるまでに成長させた。もちろん当時の戦局が、彼に実戦につぐ実戦の経験を重ねさせ、生の間をくぐり抜けさせたためでもある。」


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