川崎 三式戦闘機「飛燕」(1943)
岐阜県各務原市の岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に三式戦闘機が一機展示されている。戦時中、川崎航空機各務原分工場で三式戦闘機が生産されていた。生まれ故郷に戻ってきたわけだ。2016年、川崎重工は創立120周年記念事業として、この飛燕の完全修復をおこなった。塗装もすべて剥がされ、約1年かけてオリジナルに戻された。宇宙関係の展示もあり、見応えのある博物館である。屋外に展示されている他の飛行機たちの劣化が心配だけれど。
1940年2月、陸軍は川崎航空機に対して重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を命じた。どちらもエンジンにハ40を使うのが条件になっていた。ハは発動機の略。このハ40というのは、ドイツのダイムラーベンツDB601を日本でライセンス生産したエンジンである。このライセンス生産には必ずついて回る話がある。このエンジンを日本では海軍と陸軍が別々に発注したというエピソードである。
DB601はメッサーシュミットBf109などのドイツの飛行機で使われた優れたエンジンでロールスロイスのマリーン・エンジンと第二次世界大戦中の双璧をなした。高空でエンジンがどんな姿勢になってもガソリンの流れが滞らないようにキャブレターではなく各気筒内に直接噴射するエンジン、いわゆる直噴エンジンなのだ。昭和10年代で50万円(現在の金額に換算すると約2000倍という説がある)の契約金だったにもかかわらず、日本として契約するのではなく日本海軍(愛知航空機のアツタエンジン)と日本陸軍(川崎航空機のハ40)がそれぞれ別個に契約したのだ。ドイツは、えっそれでいいの?と驚いたとか。
ハ40を使ったキ60試作機は不採用になるが、キ61試作機は非常にいい評価で制式採用となる。皇紀2603年(1943)の採用なので三式と名付けられた。DB601の倒立V12型エンジンを生かしたスマートな機体デザインであるが、このエンジンを使った飛行機はみな似たデザインになるようで、メッサーシュミットBf109やマッキ MC.202などと雰囲気が似ている。アメリカ軍では、機体デザインも輸入したものと考えていたらしい(日本では飛行機なんか設計できっこないと思っていた)。しかし、このデザインは川崎飛行機のオリジナルである。
機体のデザインで他にも特徴がある。翼幅が広いのだ。全幅12m、面積20㎡、アスペクト比7.2という高い比率の翼形だ。土井武夫主任設計者は、アスペクト比を高くすることで高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できると考えていた。高いアスペクト比でデザインされた戦闘機にフォッケ・ウルフFw190の後期型(Ta152と呼称された)があり、翼長を長くして高高度での高速を記録している。三式戦闘機はTa152までのアスペクト比はないが、日本の戦闘機では最長のアスペクト比である。
この主翼は左右一体構造で作られており、主桁の形状や素材も工夫されていて、強度がありすぎと指摘されるほど頑丈に作られていた。胴体もセミモノコック構造となっていて、これも軽くて非常に頑丈だった。そのため急降下速度が増してもガタつかずに安定していたという(時速850km/hまで許されていた)。
燃料タンクを胴体や翼内に設けて多量の燃料を積むことができ、零戦並の航続距離3200kmを確保できた。実際に南方戦線まで海を渡っていく能力があったが、陸軍のパイロットのほうに海上航法の能力がなく、多くの三式戦闘機が行方不明になるという事故を生むことになる。
輸入したBf109とテスト飛行をおこなったが、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全てで凌駕した。スーパープレーンだった三式戦闘機であるが、唯一のそして最大の欠陥はエンジンの調整だった。超精密機械であるDBエンジンの調整を前戦基地の整備士ができなかった。日本で唯一の液冷エンジンであり、しかも燃料噴射ポンプの調整はF1マシンのワークスなみの技術が求められた。さらに、エンジンの制作でも日本の工作精度が劣っていたためクランク軸の生産がうまくできなかった。それどころか、もっと単純な基本的な工作でも油漏れを起こす。品質劣化がひどく部品があわない。などなど・・・空冷エンジンの三倍の製作工程が必要であり、しかも歩留まりが悪かった。肝心のエンジンができない!ということになったのだ。
『非情の操縦席』(渡辺洋二、光人社)の中で、渡辺洋二氏は、次のように厳しい評価をしている。
「昭和十八年初めに飛行第六十八戦隊に配備されて以来、三式戦を大歓迎で受け入れた部隊は実は一つもない。また、操縦者のうちで『三式戦はすばらしい』と答える者も、ごくまれである。主因は、まず第一にエンジンの信頼性のなさ、ついで上昇力の欠除(とくに後半の主生産機になった一型丁に顕著)にあった。」
佐貫亦男氏は次のようなエピソードを書いている。
「1943年の春ごろというと、私はドイツでベルリンの南のゲンスハーゲンにあったダイムラーベンツ工場で、DB605型の製造を実習していた。そのころ、日本からDB601型のクランク軸を500本ぐらい潜水艦で送れといってきたという話を聞いた。これは私にとってショックであった。
ダイムラーベンツではクランク軸を材料会社のクルップ社の一部門で作らせていた。ハンブルグにあるその工場を見学したが、なんの苦もなく、鍛造と機械加工をしてダイムラーベンツへ納入していた。
この日独の実力差が土井さんの力作をついに破綻させた。調布にあった飛燕基地の滑走路端の民家は、離陸中頻繁に発生するエンジン停止事故で屋根の上に落ちられて眠られないといわれた。」・・・『ヒコーキの心』(佐貫亦男、講談社)
『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(碇義朗、光人社)の中にも、DB601エンジンの購入時に交渉にあたった林貞助技師(当時、川崎航空機のパリ駐在員)の記述がある。
「私は何回かドイツのエンジン工場を見た経験から、ダイムラーベンツは斬新なことをやっているが日本の工作技術ではむずかしいから、むしろユンカースのエンジンのほうがいい、と意見具申した。結局ダイムラーベンツを購入することになってしまったが、国産化におよんで私の危惧が適中した。
DB601の特徴であるクランク軸のローラー・ベアリングなども、その一つだった。ベアリング(軸受)のローラーの角の部分を顕微鏡写真に撮って、DBと国産のとをくらべてみたことがあった。するとドイツのは自動研磨盤か何かでやったらしく、角はきれいな二次曲線の丸味をおびていたが、日本のはベアリング工場の女子工員が手作業で角研磨をやっていたので角が立っていた。しかも角の立ち方が一個ごとに違っていた。これではローラーに荷重がかかって弾性変形(荷重を除くと元にもどる)をしたときに、荷重のかかり方が一様でないから、きつくあたったところの金属結晶が破壊されてピッチングをおこし、クランク軸傷損の原因となった。
確かにDBは、ドイツ的なすぐれたエンジンではあったが、わが国の一般の基礎工業技術水準から見て買うべきではなかったと思う」
ところで40年以上前、私はお菓子会社Bの社員だった。研修で自社工場を見学した時、ビスケットの自動焼成マシンが4台あった。当時、日本では最新のもので、このマシンのおかげでビスケットのシェアを確立したというB社お宝マシンだった。このうちの1台はドイツ製オリジナルで、あとの3台は日本の機械メーカーがライセンス生産したものだった。なるほどと思ったことがある。ドイツのオリジナルマシンの周りはオイル汚れがまったくないのだ。ライセンス生産した日本製マシンはオイル汚れにうっすらとビスケットの粉がついていた。ドイツ製品の恐ろしさだった。機械をつくらせたらドイツの水準はめっぽう高い。戦時中、ものが不足していて、日の丸ハチマキの精神力だけで乗り切ろうとした日本のメーカーにはとうていできない技術レベルがDBエンジンに求められていたのだ。
結局、エンジンのない機体がたまっていく。戦闘機は欲しい。そこで、まだ生産余力のあった空冷エンジンを載せると素性がいいものだから、五式戦闘機という名機が生まれ、キ100という制式名称をもらうことになる。
実戦ではラバウル戦線やニューギニア戦線に配備され、かなりの戦果をあげている。その後、日本軍の後退とともに戦線を下げ、最後は本土防衛の迎撃任務につくことなる。有名なのは、小林照彦大尉の率いる244戦隊だ。防御降板を外し、弾丸も必要最低限まで減らし、軽量化を行って1万m上空のB29の迎撃に上がった。攻撃方法は体当たりである。無事、落下傘で生還できることもあるが戦死者も多く出た。また、沖縄戦では特攻機にも使われた。最終的には3000機以上作られた。
「三式戦闘機二型」
全長 9.1565m
全幅 12.00m
全備重量 3,825kg
発動機 ハ140(離昇1,500馬力)
最高速度 610km/h(高度6,000m)
航続距離 1,600km(過荷)
武装 20mm砲2、翼内12.7mm砲2 250kg爆弾2
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