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杉田庄一物語 その42 第五部「最前線基地ブイン」 編隊空戦

 十一月一日、陸軍と海軍の下士官兵制度統一が行われ呼称が変わることになる。海軍では、四等兵から始まって、三等兵、二等兵、一等兵、三等兵曹、二等兵曹、一等兵曹だったのが、陸軍に合わせて二等兵、一等兵、上等兵、兵長、二等兵曹、一等兵曹、上等兵曹と階級呼称を合わせることになった。少しでも陸海軍の溝を埋めようということで呼称から統一することにしたのだ。杉田も前日十月三十一日付で一日だけ一等飛行兵(一飛)になり、翌十一月一日付けで飛行兵長(飛長)に昇進した。

 海軍航空隊も再編が図られ名称が変更された。戦地に移動しているのに、原隊のあった地名がついた航空隊名ではおかしいということで、全ての航空隊が3桁数字に改められた。ラバウルにあった第二海軍航空隊(二空)は第五八二海軍航空隊(五八二空:ごおやあふたくう)に、第六海軍航空隊(六空)は第二〇四海軍航空隊(二〇四空:ふたまるよんくう)、鹿屋空戦闘機隊は第二五三海軍航空隊(二五三空:ふたごおさんくう)と改称した。消耗の激しかった台南航空隊は第二五一海軍航空隊(二五一空:ふたごおいちくう)と改称し内地に戻って再建することになった。第三海軍航空隊もケンダリーに戻り錬成をはかることになる。入れ替わりに元山航空隊の戦闘機隊を母体とした第二五二海軍航空隊(二五二空:ふたごうふたくう)がカビエンで開隊し、ラバウルに着任した。

 二五二空は、木更津基地で新しい編隊空戦の特訓を受けてからラバウルに派遣されていた。具体的には小隊を三機編成から四機編成にすることだ。一番機と三番機がペアになり、二番機には四番機がペアとなる。その四機も、常に同じ動作で飛ぶ二機一組を基本形(二機不離の原則)とし、二機と二機で複雑なフォーメーションを展開する。

 訓練は、横須賀航空隊の花本清登少佐によって指導された。花本は前線の戦訓などからグラマンの編隊空戦に対抗するには零戦も編隊空戦に切り替えなければならないと考えていた。この編隊による空戦法は、そもそもはドイツ空軍が編み出したロッテ戦法がもとで、ヨーロッパの航空戦はすでに編隊空戦で行われていた。日本陸軍も編隊空戦に移行しつつあった。

 しかし、その二五二空の搭乗員たちも、いざ空戦に入るとせっかく訓練した編隊空戦など吹っ飛んでしまう。特にベテランほど身に染みついた個人技能が優先してしまうのだ。『零戦燃ゆ2』(柳田邦男、文藝春秋)の中に、当時、ラバウルに着任したばかりの三森一正中尉が編隊空戦に関して感じたことが紹介されている。

「編隊空戦法の訓練が実戦で活かされたことは、九十九パーセントなかったように覚えています。出撃に際して、指揮官が『二機の単位は崩すな』と注意していたはずなのですが、いざ空戦となると、バラバラになってしまうのです。
 空戦で、全体のペースを決めるのは、やはり日華事変(日中戦争)以来のベテランでした。そういう歴戦の勇士は、どうしても単機で敵を撃墜しようとする傾向が強かった。零戦の性能がすぐれていたためか、それとも技量に自信を持ち過ぎていたためか、彼らは各人思い思いの獲物を目がけて、格闘戦を挑むのです」
「士官といえども、技量と実績の両面で劣っている私たちは、下士官に強いるような指示の仕方を避けていました。士官が『編隊空戦をせよ』と命じることは、『俺について来い』というのと等しかったのです。未熟な者が熟練者に命令するのですから、抵抗感がありました。
『何をいってやがる』とか『なんでお前ごときヒヨッコの後につかなくちゃならんのか』といった反感を買うのではと、気にする気持が私にはありましたね・・・・」

 また、当時二五二空に所属していた宮崎勇も『還って来た紫電改』(宮崎勇、光人社)の中で当時の編隊空戦に関して次のように述べている。
「米軍のF4F戦闘機が編隊空戦で向かってくると、零戦はしばしば苦戦に追い込まれた。『編隊空戦』は、二五二空が特訓を重ねたうえでラバウルに派遣されてきたはずだったのではあるが、実戦ではなかなか、それを生かせない。・・・(中略)
 海軍航空隊の得意技だった『ひねりこみ』という技術も、場面によっては、空戦の障害になったのではないだろうか。これは、宙返りをする途中で機体をひねって、グルーッとまわるべき円形を途中でカットするような形で敵機のうしろから切り込んでゆく戦法である。
 このワザは、ひところ、大きな威力を発揮したので、その訓練を徹底的にやった。それが体にしみこんでいるから、『ひねりこみ』をやる単機単位の攻撃になってしまう。
 戦闘機乗りの『気性』というか、独立心の強い、いわば一匹オオカミかたぎの戦闘機乗りが、当時はとくに多かった。それが『個人技』につながり、チームプレーにはなじまない・・・という傾向にもなったと思う」

 もう一つ初期の編隊空戦がうまくいかなかった理由に空中無線機がほとんど使えなかったことがある。編隊飛行では搭乗員間のコミュニケーションが極めて重要になる。息をあわせて機体をコントロールすることができなければならない。しかし、零戦に装備されていた空中無線機は、雑音がひどく全くと言っていいほど役にたたず、搭乗員間のコミュニケーションは手信号でおこなっていた。

 たいがいの搭乗員は無線機を外し、アンテナを折って少しでもスピードが出るようにしていた。基地とのやりとりは、昔ながらのモールス信号だった。これではなかなか有効な編隊空戦は行えなかった。米軍機はもちろん、日本陸軍機でも海軍機ほどひどくはなく、実用化していたのにもかかわらず、日本海軍機は技術供与を陸軍から受けていなかった。規格をそろえるという基本的なミリタリースタンダードの意識欠如がここにもあった。

 これでは、編隊空戦の効果はわかっていてもなかなか実現しないわけである。ベテランたちほど、これまでの勝ち戦とは違い、飛行機も搭乗員もどんどん失われていく消耗戦の中でとまどっていたに違いない。

 一方、杉田らのように飛練を終えてすぐにラバウルにやってきた新人たちは、今までのような格闘戦では勝ち目のないことを痛感しており、スピード重視の空戦に頭を切り替えることができた。杉田と同じ丙飛三期の中村は、『証言 零戦 真珠湾攻撃、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(神立尚紀、講談社)の中で次のように述懐している。
「空戦のときはスピードを落としたらイチコロでやられますよ。 スピードを保ったまま格闘戦なんてできないし、敵もそんなフラフラ飛んでるやつはいないから、最初から格闘戦になることはなかったんじゃないですか。敵も味方も何機も同じ空を飛んでいて、 つねに敵の方が多いわけだから、一対一でぐるぐる回ってたら横から別の敵機に撃たれます。私の場合、何十回も空戦して、縦の巴戦は一回だけ、それも結局、墜とせませんでした。」

スピードを生かした戦闘には編隊を組むことが有利に働く。零戦での戦いも次第にスピードを生かした編隊空戦に変化して行かざるをえなかった。

 さらに新鋭機グラマンF6Fヘルキャットが登場する。零戦の二倍の馬力をもち、劣位の下方からも平気で編隊のままぐんぐん上昇してきて、撃ちながら上空へ駆け抜けて行くことができた。

 小福田は、はじめてF6Fと対峙した時のことを著書の中で次のように語っている。
「いつごろであったか、私はガダルカナル島の上空で、敵機を発見した。わが方がはるかに上位なので、あわてずに、攻撃しやすい相対的関係位置になるように、ゆっくり回り込んでいった。だが、敵はまるで毒蛇のごとく、不利な真下から上に向かって、私にかみついてくる。 そのころは、私はまだ敵機がF4Fだと思い込んでいたので、敵にそんな芸当ができるはずはないと、びっくりしたことがある。その敵機は、真下からやけくそみたいに、私の飛行機を撃ち上げ、そのまま余勢をかって、私の目の前を、斜めに上昇していった。まさか、そんな上昇力のある戦闘機が、世の中にあるとは知らなかったのだ。これがおそらく、はじめて戦場に出てきたF6Fだったようである。」

 F6Fのエンジンは二千馬力で零戦の約二倍だった。余裕をもって下位から上昇しながら相対すことができたのだ。格闘戦に持ち込めば零戦は強いと言っても、米軍内では零戦と格闘戦をするなとお達しが出ていた。格闘戦だと日本機に負けるからということではない。わざわざ速度を落として日本機に合わせて空戦する必要がなかったのだ。スピードある戦いになれば零戦はついていけなかった。

 すでに米国では最高月産六百機という量産体制でF6F戦闘機を増産していた。そのほかにF4Uコルセア戦闘機、P38ライトニング戦闘機、B17爆撃機、B24爆撃機などの新型機が増産体制に入っていた。日本でも最優先で零戦の量産が行われていたが、米軍とは質量とも大きく差をつけられた。日本では他機種の生産を止め、零戦に絞って生産していたのにである。 

 また、搭乗員も不足のままだった。若手予科練出身者は、訓練期間を短縮しており操縦すら完熟していない。戦法も個人技から編隊空戦に変わり、戦法に対する意識変革が必要であった。戦局も航空機の進化も戦術もすべてが大きく局面転換する時期であった。

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