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飛行機の本#38『ひこうきぐも』撃墜王小林照彦少佐の航跡(小林千恵子)

3月10日は東京大空襲の日である。最近は、東日本大震災の前日ということでTVなどで特番を組まれることもなくなった。

東京は昭和19年の秋以降にアメリカ軍のB29による空襲を頻繁に受けていたが、昭和20年3月10日はそれまでにない大空襲を受けた。このときの空襲はガソリンを原料とする焼夷弾で下町の家屋をねらうという非情な無差別爆撃であった。目的は民衆の戦意喪失であり、ドイツのドレスデンに対する爆撃、このあとに行われた広島や長崎の原爆投下と同じように多くの民衆を無慈悲に殺すことにあった。爆撃による被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸。火災ににげまどう人々は川や池に飛び込んだが、水は沸騰し苦しみながら死んでいった。また、酸素を吸い尽くす火炎により多くの人が窒息死した。

当時、首都防衛にあたった日本陸軍第244飛行戦隊の隊長は、この本の作者の夫である小林照彦少佐である。当時、小林少佐は26歳、千恵子さんは22歳、第一子がうまれたばかりであった。日本陸軍では最年少の戦隊長である。陸軍士官学校を出ただけでなく、操縦技量も抜群であった。この本は、小林少佐との出会いからその死までを克明に書いた小林千恵子さんの記録である。

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B29爆撃機は、当時の日本の飛行機ではなかなか到達できない1万メートル以上の上空を編隊を組んで飛んできた。第244戦隊は、ダイムラーベンツのエンジンDB601を国産化して積んだ『飛燕』という戦闘機で構成されていた。DB601は国産化が難しく、性能は優れていたが量産化できなかった。そのような貴重な『飛燕』にもかかわらず対B29への戦闘は体当たりであった。ガソリンの質も悪く、整備もままならない状態では、まともな戦闘はできなかったのだ。

第244戦隊では装備を軽くした『飛燕』でなんとかB29の飛んでくる上空まで上昇し、体当たり攻撃をする。たまたまうまく脱出できることもあるが、戦死者も続出した。そこまでしなければ東京上空を守れなかったのだ。

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士官は家から通える。隊長である小林少佐も自宅から通っていたが、常に死を意識していた。自分も体当たりで生還するが、次々と部下は死んでいく。死を意識し、日記には次のように記している。「2月16日 屍を越えて戦わんのみ。・・・坊やの将来を楽しみつつ死なん。千恵子よ、苦労をかけて済まない。孝彦を頼むぞ。頑張れ。俺も死んでも頑張るぞ。坊やを頼む。冥土で仲良く暮らそう、千恵子よ、さようなら」

実は、このとき生まれたばかりの長男孝彦は重い病にかかっていた。そして3月19日、危篤になったときにも小林少佐は特攻隊の出撃に際し部隊を離れられなかったのだ。日記には「待望の出撃。小西中尉および四宮中尉以下の振武特攻隊24機を指揮し、攻撃隊長となり、調布飛行場発進。(・・・以後、軍関係の記述後に)ときに自宅より電話ありて、孝彦の危篤を聞く、心騒ぎたるも、大事の前の一私事なるを思い、強いて笑みて出動す。帰還後、聞けば、恰も離陸せる15時死亡せりと・・・」と記されている。

妻である千恵子さんの心情もいかばかりかと思う。

小林照彦少佐は戦争を生き延びた。10年後には、できたばかりの航空自衛隊の飛行隊長となったが、同乗者との訓練中にエンジン故障で殉職する。市街地への墜落をさけての操縦だったという。



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