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杉田庄一物語その40 第五部「最前線基地ブイン」 日米航空機の比較

 米軍が十月危機にある一方、日本側では米軍が危機にあるとは知らず、前述のようにたびたび爆撃にくるB17爆撃機に手を焼いていた。前線基地のブインはガダルカナル島方面の敵に近い分、攻撃に行きやすいが敵からの攻撃も受けやすいということになる。夜になると八時か九時頃に一機か二機で基地にやってきて、一時間くらい上空を旋回し、思い出したかのようにポトンポトンと爆弾を落としていく。隊員たちは「ルーズベルト定期便」と呼んで防空壕に身を隠す。やれやれ行ったわいと思っているとまた次の爆撃機が交代でやってくる。数少ない高射砲も射ったが最後、集中爆撃を受けるのでなかなか手が出せない。しかも、せっかく撃った高射砲弾の破片がバラバラ落ちてきて、こちらの方がかえって危ない。こんなことが毎日繰り返される。

 兵士たちを眠らせないという神経戦である。実は同じことを日本側でも行っていた。『海兵隊コルセア空戦記』(グレゴリー・ボイントン、光人社)に日本軍の行っていた夜間爆撃で悩まされたことが書かれている。ヨーロッパ東部戦線でもソビエト軍が複葉機を用いて夜になるとドイツ軍陣地にポトンポトン作戦を行っていた。しかもパイロットが女性の夜間爆撃隊で「魔女飛行隊」と呼ばれていた。ポトンポトン爆弾は戦場の兵士たちを眠らせない常套手段なのだ。

 B17の爆撃のため睡眠不足のまま搭乗員は次の日の早朝、ガダルカナル島へ長距離攻撃に出撃し睡魔と戦わなければならない。多くの零戦搭乗員の手記に睡魔との戦いのことが書かれている。眠りに落ちて海面に落ちる事故もたびたび起きていた。

 ブイン基地にもB17による爆撃が行われ、迎撃にあがってもせいぜい数発当てるだけで、なかなか墜とすことができない状態が続いていた。あるとき、森崎予備中尉のもとで島川や大原など十二機の零戦で四機のB17爆撃機を全機撃墜したことがある。ガダルカナル島方面に逃げるB17を一時間半も追撃し、ようやく墜とすことができた。これだけの長時間追撃をかけられるのは零戦でしかできないが、同様にこれだけ持ちこたえられたのもB17でしかできないタフさだった。乗員を守る厚い装甲板と自動的に破口を塞ぐゴム張の燃料タンク、そして自動消火装置が米軍爆撃機には標準装備としてついていた。B17は、少しくらい弾が当たっていても墜ちるどころか、逆にハリネズミのような防御火力で日本機の方が墜とされる可能性の方が高かった。

 同じ爆撃機でも日本海軍の一式陸上攻撃機(陸攻あるいは中攻と呼ばれた)の初期型には防弾装置がなく、すぐに火災を起こすので米軍からは「ワン・ショット・ライター」などと揶揄されていた。ラバウル航空戦以降には、日本軍機にも防弾装備は必須になっていくのだが、この時期はまだ対応ができないでいた。

 小福田晧文(てるふみ、本名は貢)は一式陸上攻撃機について次のように指摘している。
「この攻撃機に乗って戦死した搭乗員は、じつに莫大な数に上がる。防御装置が、ほとんど考えられていない一式陸攻が、敵戦闘機の待ちかまえている真っただ中に飛び込んで行くわけだから、ほとんど敵の一撃でパッと火を吐くのだ。そして、すぐに火だるまとなって落ちてゆく。この火がすぐにつくところは、まるでライターそっくりだというところから嘲笑的ニックネームがついたのである。

 私は、これまで、いつもこの陸攻隊を掩護して、敵地空襲に参加してきた。一式陸攻は敵機上空で、あっという瞬間に、直上高高度から急降下してくる一撃退避の敵戦闘機の戦法にあい、一回の射撃で、すぐに火焔につつまれて落ちてゆく。

 この光景を、何十回というほど目にしてきた私は、いつも掩護の任務に完うしえない申し訳なさと、あまりにも防備に弱いこの一式陸攻のもろさに、どこにももって行き場のない憤懣をおぼえるのがつねであった。」・・・『指揮官空戦記』(小福田晧文、光人社)

 グラマンなどの米軍機の戦法もこれまでのように格闘戦に引き込まれることをさけ、一撃離脱法に変わっていった。米軍のパイロットたちはどんどん腕をあげており、開戦時のような日本機が有利のような状況が確実に変化していく。格闘戦の個人技だけではスピード重視の戦いに通じなくなっていた。米軍は無線機で連絡を取りあい、編隊での空戦を行うようになっていた。それに比べて零戦の無線はまったく使い物にならず、取り外してしまう者も多かった。

 米軍パイロットは前線で一定期間過ごすと教官となって戻り、そのスキルを若手パイロットに伝えて行くというシステムをとっていた。米軍ではパイロットは全員士官になっていて、士官と兵のような複雑な上下関係を作っていない。上官であってもチームメイトという意識があった。また、戦訓を分析し経営学的手法でノウハウを全航空隊で共有していた。決められた出撃回数で前線から交代する米軍からはエースを輩出しにくいが、戦場に新たにデビューするパイロットはスキルとノウハウを内地に戻ったベテランから叩き込まれており、次第に航空隊全体が戦闘には強くなっていた。エースというのは、五機以上撃墜者への称号である。米軍にもエースが次第に増えていくことになる

 逆に日本側の搭乗員はベテランがそのまま戦場に居残りになる。生き延びたものは戦果をあげつづけ、多数機撃墜のエースになることができるが、そのノウハウはなかなか伝承されず若手育成が課題となる。また、ベテランの下士官エースであっても経験未熟な士官の命令でしか動けず、士官もまたベテランの下士官エースに気を使って複雑な上下関係となっていた。そして、そのようなエースもいつかは幸運の女神に見放される時がくる。「死ぬまでラバウルを離れられない」「ラバウルは搭乗員の墓場」と日本側の搭乗員たちはささやきあっていた。

 さらに付け加えれば、日本軍では陸軍と海軍の間の連携ができていなかったことも問題であった。組織から呼称、装備、兵器など、同じ日本の軍隊なのにまったく別物だったのだ。海軍で陸戦隊を作り、陸軍で潜航輸送艇(潜水艦)や特殊船(航空母艦)を作っていた。同じ中島航空機製の栄エンジンを使っていても零戦に搭載されているものと陸軍の一式戦に搭載されているものでは、微妙に互換性がなかった。規格を統一するミリタリースタンダードという考え方がそもそもなかったのだ。そして、戦争になってから、前線で協力体制をとらざるを得なくなっていく。海軍に陸軍の偵察機が貸与されることになったのだ。

 十月中旬に陸軍航空部隊として初めてラバウルに派遣された独立飛行第七十六中隊の百式司令部偵察機(百式司偵)が、ガダルカナル島へ偵察に出かけ未帰還となった。洋上航法不慣れのためと思われるが、このあと十二月から正式に陸軍航空隊が続々とラバウル方面に派遣される。

 百式司偵は太平洋戦争を通して活躍をした三菱製の高性能戦略偵察機である。その性能は卓越していて速度、後続距離とも世界水準を超えていた。この百式司偵が海軍へ貸し出され、ラバウルの海軍各飛行隊で百式司偵による偵察活動が日常的に行われるようになる。

 陸軍航空部隊の太平洋方面への派遣は、以前から海軍に要請されていたが遅々として進んでいなかった。天皇からの示唆もあったのに、陸軍の関心は専ら中国大陸での四川省作戦と南西方面でのインド東部侵攻であり、太平洋戦線はガダルカナル島の苦境まで関心が薄かった。

 海軍側は、「もともと陸軍が大陸で起こした戦争によって資源や石油が止められ太平洋戦争を始めなければならなかった」という思いがある。陸軍にとっては、「太平洋方面でかってに米国と戦争を始めた海軍のあとしまつをなんで陸軍がしなければならないのか」という思いをもっていた。 

 しかし、敵との戦いの中にある前線では、そのような中央部の思惑は関係なく協力を惜しまない雰囲気があり、ようやく陸軍航空部隊がラバウルに派遣されたのだ。だが、慣れない洋上飛行で事故や遭難も相次ぐことになった。

<参考>

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