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杉田庄一ノート36:昭和18年1月〜2月ガダルカナル消耗戦

 ガダルカナルの攻防は日米の消耗戦だった。両軍ともジャングル戦とマラリアで苦しむ。アメリカ軍側は物量作戦で圧倒的に勝ち続けたような印象があるが、必ずしもそうではない。上陸時のアメリカ軍は日本軍の残した食料や物資でしのいだのだ。また、補給が途絶え「8月危機」といわれた時期もあった。ブルースター F2A、グラマンF4F、ベルP-400など、零戦と格闘戦を行えば勝ち目のない開戦時からの機体がまだまだ航空兵力の主力であった。
 しかし、日本軍に比べれば雲泥の差だった。そもそも日本軍には兵站(ロジスティクス)の考えが薄く現地調達が基本だった。たとえ補給を行おうとしても本土から長距離海上補給は厳しく、大きく兵站の差がついていくことになる。補給は途絶え、食料がなくなり餓島と呼ばれるようになる。上陸した日本陸軍の戦死者は約5,000名、餓死と戦病死約15,000名と言われている。
 このガダルカナル戦で日本海軍は「潜水艦の攻撃をさけるため補給艦として駆逐艦を投入する」と「制空権を確保するための航空兵力を投入する」という策をとるが、消耗戦となり次の戦力投入ができなくなる。その場での損害以上に事後の戦いにボディブローのように効いてくることになる。航空兵力の損失は、航空機、搭乗員ともミッドウェイ海戦時の三倍を上回った。ガダルカナル戦の途中からアメリカ軍の飛行機はグラマンF6FやロッキードP38など次代の戦闘機になっていく。日本海軍は、高速にするため翼端を短くした零戦32型や零戦22型を投入するが、機数が十分でない上に搭乗員が圧倒的に足りず、訓練不足のまま戦場に駆り出された。

 ブイン基地からガダルカナルの戦場まで距離で約540km離れている。連日、3時間飛んでいって空戦を行い、また3時間かけてもどってくるという戦いを強いられた。車に置き換えても休みなしでこれだけ運転するのはつらい。航空路にサービスエリアがあるわけではない。ましてや、移動するだけでなく、その先で生死をかけた空戦を行うのだから搭乗員の疲労は計り知れない。
 空戦で戦死する者以外にも疲労のため飛行中に眠ってしまいそのまま海に墜ちていった搭乗員もすくなからずいたという。ドライバーを太腿に刺して眠気を追い払ったという搭乗員の証言も複数読んだ。
 天候の問題もある。いつも晴天というわけではなくスコール(豪雨)や厚い積乱雲も飛行の邪魔をする。「指揮官空戦機」(小福田皓文、光文社)には、比較的軽易な攻撃任務に経験の浅い士官を指揮官として二個中隊(18機)を出すがスコールと積乱雲に突っ込んで9機しか帰ってこなかったというエピソードがある。

 204航空隊もこの消耗戦に巻き込まれていた。「島川正明空戦記録」(島川正明、光文社)では次のように書かれている。
 「ブインへ進出後は、攻撃に、迎撃に、また船団護衛にと、消耗戦は日増しに激化していった。出動する零戦パイロットにとっても、その消耗は同様である。ましてや若いパイロットをかかえる我が部隊においてもやである。
 悪条件下の飛行場、艦艇、航空機の消耗、天候の急変、あくなき敵の攻撃……。このような状況下にあってなお、訓練を必要とする若年パイロットをもつ部隊にとっては、敵機出現の度合いを考えた場合、比較的古いパイロットの出動が多くなり、そのぶんよけいに負担がのしかかった。
 出撃につぐ出撃は、同時にまたパイロットたちに疲労を蓄積させた。闘志を失ったのではと思わせる者まで現れるにいたり、必然的に士気の低下をまねいたのである。」

 複数の飛行隊の残党から結成されたため、当初の士気の低下がそうさせたのか、ベテランの下士官から兵に対して全員気合をいれられる(殴られる)というできごともあり、それがまたさらに士気を低下させたと島川氏は書いている。年末頃には、疲労やマラリアで倒れていく搭乗員が続出する。島川氏の記述を追っていく。
「このような状況下、兵舎(掘っ立て小屋)内にある搭乗員たちのベッド(板の間に毛布を敷いたもの、あるいは折りたたみ式軽便寝台だったかも知れない)は、その日出撃したパイロットたちの運命を物語っている。
 ぶじ帰還した搭乗員のベッドは、夕方、毛布がひろげられているが、未帰還者のベッドは、毛布が出撃前と同様、くるくるときれいに丸められ、枕がのったままになっている。つまり、寝る準備がなされていないのだ。
 このような帰る人のないベッドを見て、あいつも戦死か、こいつもかと、つぎつぎに消える戦友たちのベッドを見ながら、俺の番はいつだろうと、そんな考えをめぐらす日日の連続だった。
 いったい、この時期、この弱気を克服するものは何だったのか。」

 しかし、小福田皓文少佐や宮野善治郎大尉の二人の若い指揮官の率先垂範の人柄が次第にこの暗い雰囲気を払拭していく。この時期、若手搭乗員(ジャク)をそのまま戦場に飛ばすわけに行かず、どうしてもベテラン搭乗員に負担が重くかかっていた。その分、若い搭乗員たちは元気いっぱいで実戦にむけた訓練を重ねていた。特に宮野大尉は、殴って指導するタイプではなく。身をもっての具体的な指導を行い、若年搭乗員から慕われ兄のように思われるようになっていく。当時、杉田と同じくジャクの飛長だった大原亮治氏の談が「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)で紹介されている。ちなみに海軍では新米や若手をジャク(若年者を表す)と呼んでいた。

 ブイン基地では、士官室と搭乗員室は四十〜五十メートルほどしか離れておらず、目と鼻の先にあった(海軍では原則として士官は士官室が与えられ、飲食も従兵がつくなど下士官兵とは差別化されていた)。
 宮野大尉は、暗くなると従兵にビールを担がせ搭乗員室にやってくる。
 「戦闘で、今日はやられたという時は、『何をおまえらしょぼしょぼしている。元気出せ!明日は仇をとろうぜ、な!』、それからみんな車座になって、宮野大尉という人はそうやって飲みながら、あれはこうだぞ、とか、お前あれはまずいぞ、ということをビシッと言ってくれるんですよ。怒って言うんじゃなくて。『お前、あんなことするなよ』『隊長、わかってます、わかってます』『わかればいいんだ。まあ飲め』。作戦上のことで、『あんな動きをしたらすすぐ堕とされるぞ』とか、叱られることはあっても、感情的に馬鹿呼ばわりされたり、怒られたりしたことは一度もないですね。時には搭乗員が、『隊長、しょぼしょぼするな、俺たちがんばるからさぁ』なんて逆にハッパをかけたりして。戦果が挙がったら挙がったで、『おう、今日はやったな』って、やっぱり来るわけですよ。」
 「他の士官なら、日常の暮らしや戦いの中で、必ず一度はわれわれ下士官兵搭乗員に対して階級の差を感じるような嫌な面を見せるものですが、宮野大尉にはそれが全くなかった。嫌なところが一つもなかったんです。部下の心を捉えて離さない人だった。人の心をつかもうとしているんじゃなくて、自然ひきつけられるというか。そう言えば、森崎中尉に対しても、森崎中尉、とは呼んでも、正式に森崎予備中尉、と呼ぶのは聞いたことがありません。そういう心遣いはされていたんだと思いますね」

 宮野大尉、この時まだ23歳である。この宮野大尉の「指導のあり方」に大原氏とおなじく当時ジャクだった杉田は強く感化されたのだと思う。1年後、後輩に同じことをしている。
 杉田が歴戦のベテラン搭乗員として263空に赴任すると予科練を出て戦場に来たばかりの笠井さん(甲飛10期)たちに対して宮野大尉と同じような指導(殴らない、怒らない、具体的実践的な指導、酒を飲みながらの反省会)を行う。
 そして、さらに1年後343空に移った時も同様であった。杉田の指導は具体的で決して怒ったりせず、夜は酒盛りになった。そんな杉田に笠井さんは殴られたことがあり、そのおかげで自分は生き残ることができたと語っている。殴られた原因は敵機への突っ込みに一瞬ひるんだことだった。笠井さんのそのときの空戦を杉田は一番機として見守っていたのだ。
 また、昭和18年に大村空で教員をしているときには、そのような指導態度がおそらく同じく教員であった坂井三郎氏の指導方法と大きく異なり確執を生んだ。坂井氏の指導は説法と気合が中心で、それでは敵に勝てないと杉田は反発した。杉田は、坂井さんよりも10歳くらい年少であり、官暦も雲泥の差であったが、坂井氏が前線を去った後の激戦を生き抜いてきたという自負があったのだろう。同じ時期、二人はソロモン海域の多機撃墜者として表彰をされているが、指導方法は全く相反していたという。

 さて、ブイン進出時にはミッドウェイ生き残りのベテン少数と予科練を切り上げてきたばかり若年搭乗員ばかりの204空であったが、小福田少佐や宮野大尉のもとに結束していき昭和17年も終わろうとしていた。

 昭和17年12月31日、正月用の物資を満載にした輸送船がバラレ沖に入ってきたが、潜水艦に攻撃されて沈没した。潜水艦による攻撃は日常的になってきており、元日も大晦日もなかった。
 同じ日、日本ではガダルカナル撤退が午前会議で決定した。1月4日に大命がくだり、2月1日から陸海軍協力の元にガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)が行われることになる。
 しかし、そのような展開をまだ知らない前線、ガダルカナル島では食料が途絶え、飢えと伝染病で連日多くの日本兵が死んでいった。まだまだ補給路は確保しなけれればならない。撤退が決まっていても制空権をめぐるソロモン海域の航空消耗戦はさらに激化する。「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)では次のように記述されている。

 「昭和十八年の元旦、敵も多少は遠慮したのか、ブイン基地への空襲はなかった。おかげで、204空の隊員たちはこの日ばかりはゆっくり過ごせた。が、後方のラバウル基地には未明にB-17数機が来襲している。」・・・

 「撤退の方針が定まっても、現に島にいる部隊への補給は続けなければならない。一月二日、ガ島への増援輸送を行なう輸送船団の上空哨戒に、二〇四空は二直に分けて出撃している。哨戒高度は四千メートル、二直目の宮野以下七機が船団上空に到着してから一時間後、来襲したグラマンF4F戦闘機、SBD艦爆十二機と空戦に入り、宮野が二機を撃墜したのをはじめ、日高飛曹長、大正谷一飛曹、藤定飛長、杉田飛長が各一機、川田二飛曹と西山飛長が協同で一機、計七機を撃墜した。船団に被弾が一発あったが、航海に差支えがなかった。」

 このときが杉田にとって初めての単独撃墜だった。その頃の搭乗割をみると三機編隊の三番機になっていることが多い。一番機や二番機にくっついている見習いの位置である。第一撃や切り返しでの第二撃では編隊のまま飛んでいるが、そのあとは編隊がばらけていき単独空戦にはいっていく。この時もおそらく編隊がばらけたあとの空戦で墜としたのであろう。
 前年の12月1日に体当たりでB17を墜としたのは訓練中であり、神田飛長との協同撃墜になっていた。また、12月28日にも編隊空戦によりB17を協同撃墜している。今回はグラマンF4F戦闘機を単独の空戦、つまり自分の実力で落としたことになる。事実上のソロデビューである。

 「敵に制空権を握られつつあったムンダ基地の上空哨戒も毎日続けられていたが、一月四日夜、ムンダは敵巡洋艦艦隊の艦砲射撃を受けた。二十六航戦では急遽、二〇四空戦闘機隊と五八二空艦爆隊をもってその敵艦隊を攻撃する命令をくだした。」

 翌1月5日艦爆隊護衛を行うが、このとき小福田少佐と宮野大尉が考案した新しい戦法をとる。艦爆隊の攻撃は、敵防御砲火に真っ向から向かっていくため被害を受けやすいため撃墜されることが多く、消耗がはげしかったのだ。
 その新戦法とは、戦闘機隊を直掩隊と遊撃隊に分け、艦爆隊が急降下に入る前に遊撃隊が敵機を排除し、直掩隊の一個小隊と艦爆隊が共に降下するというものだ。直掩隊にはもう一個小隊が艦爆隊の上空500mで待機しており、艦爆と共に降下した直掩隊は爆弾投下後に合流して艦爆隊の傘になり護衛する。スピードの早い零戦は、艦爆と合わせるためにバリカン運動(左右に機を振りながら飛ぶ)を行いながら速度を落とした。艦爆隊は敵艦二隻に直撃をあたえることができたが、この防御戦法でも艦爆隊の被害を食い止められず爆撃後に二機が撃墜され、他の二機も被弾した。
 アメリカ軍は1月からガダルカナル戦でVT信管(近接信管)を使用し始めており、この後は敵艦に近づいて爆撃することが容易ならざる状況になっていく。なお、この艦爆隊護衛には杉田の搭乗割はなかった。
 1月5日は、このような艦爆隊護衛のあとにもかかわらず、その日のうちにラバウルに移動し翌日のモレスビー攻撃の護衛任務にあたることになる。艦爆護衛任務にあたった者に基地での残留組も含めて12機でラバウルに向かう。この残留組には杉田も入っていて、翌6日のモレスビー上空での空戦では、初めてB24爆撃機を協同撃墜をしている。

 このあと1月から2月はガダルカナルからの撤収作戦が本格的に動き出し、204空も船団護衛任務が多くなっていく。この頃は1小隊3機で編隊を組み、2小隊あるいは3小隊で1中隊として出撃することが多かった。小隊長が1番機、左右に2番機、3番機とつく。
 1月19日、阿蘇丸上空哨戒任務でグラマンF4F戦闘機を2機協同撃墜。
 1月25日、ガダルカナル上空でグラマンF4F戦闘機を1機協同撃墜。
 2月1日午前7時、ブイン上空にボーイングB17爆撃機が現れ森崎中尉の指揮下4小隊12機で追撃戦、1時間半かけて全4機を撃墜。杉田は日高飛曹長の2番機として出撃する。「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)の中に、大原亮二氏が語るこの日の様子が載せられている。大原氏は日高小隊の3番機であった。
 「この時は天候がよかった。爆撃を終えたB-17はイサベル島の方に逃げていきました。その先に雲がかかっていたんですが、この雲に敵機が入ったらその出鼻を押さえてやろうと先回りしました。それで、思った通りにB-17が目の前に現れたので、前方から突き上げて、ぶら下がるような形で二十ミリを打ち込んだんです。その敵機は、胴体と翼の付け根が火の玉のようになって墜ちていきました。残る敵機も、ガ島の方向に逃げるのを、全機撃墜するまで追いかけていきました。」(大原飛長談)
 戦闘行動調書には12機で4機協同撃墜と記録されている。同日にもかかわらず、12時15分から小福田大尉の指揮下5小隊11機で3時間半にわたる船団哨戒任務についている。この時は、松村上飛曹の2番機として出撃、敵機とは会っていない。

 2月4日、第二次ガダルカナル撤収作戦に船団上空哨戒任務として2中隊12機で参加、森崎中尉の2番機として出撃し敵7機と遭遇、fc4機協同撃墜。(fcは艦上戦闘機の略。機体識別は具体的に残されていない。
 2月6日、下士官任官のための杉田ら飛兵長の身体検査が行われる。
 2月10日、森崎中尉指揮下2中隊14機で艦爆隊直衛任務、野田飛曹長の3番機として出撃するが会敵することなく任務終了。
 2月12日、日高飛曹長指揮下3中隊9機でブインに入港する輸送船の上空護衛任務につく。日高飛曹長の2番機として出撃、会敵せず。この輸送船で久しぶりに内地の野菜が補給された。
 2月13日、ブイン基地が敵襲に会う。B-24が3機ずつの2個小隊で現れ、護衛にロッキードP-38が4機、カーチスホークP-40が7機がついていた。ガダルカナルを押さえたアメリカ軍は勢いを増し、いよいよブイン基地をつぶしにかかってきたのだ。B-24の迎撃にあがるが、なかなか墜とすことができないタフな機体であった。杉田は搭乗割に入っていない。
 この日はP-38が護衛機としてついてきた。登場したてのころは、無理な格闘戦に持ち込まれ零戦に簡単に堕とされることになり「ペロ八」と呼ばれることになったが、その高速性を生かした戦法をとるようになり、零戦も苦戦することになる。

 2月14日もB-249機編隊とボートF4U12機編隊がブインを空襲する。邀撃に上がったのは宮野大尉以下の13機にバラ基地から参戦した252空の零戦や802空の二式水戦など合わせて31機である。戦闘行動調書によれば、ブイン上空での1時間以上の追撃戦でコンソリデーテッドB24爆撃機を2機、ロッキードP38戦闘機を2機、ボートF4U戦闘機を2機、協同で撃墜と記録されている。この日の戦果はすさまじい。協同ではあるが大型爆撃機を2機、新鋭のP38戦闘機を2機、同じく新鋭のF4U戦闘機を2機撃墜している。F4Uはこの日が戦線デビューだったが、まだ運用時間が平均30時間しかなく、一方的な敗北を喫した。アメリカ側では「バレンタインデーの虐殺」と記録されている。

 「ブイン上空」というのは、基地上空に侵入してくる敵の爆撃機と護衛戦闘機に対する邀撃任務ということだ。このころ、ブイン基地には、毎日夜も昼もアメリカ軍による爆撃が行われるようになっていた。いよいよアメリカ軍の戦力増強が現れてきたのだ。護衛の戦闘機もP38やF4Uという新鋭の戦闘機で、アメリカ軍機は次世代に変わってきた。また、日本軍の零戦も21型(1号戦)に代わり翼の先を角形に成形した32型(2号戦)が前線に出るようになってきた。ベテランはこれまでの21型を好み、邀撃に有利ということで若手には32型が人気だったという。杉田の搭乗していたという32型の写真が残されている。また、翼長を21型と同じに戻した22型にも搭乗している。

 「空戦の勝負は『初動』で決まる。1号戦の方が縦の格闘戦でやや小回りが利く美点はあったが、もはやソロモンの空では単機同士の格闘戦など現実にはほとんど起こらず、それよりも、馬力が強くて突っ込みがよく、しかも高速時の横操作の軽快な2号戦の方が、多くの場合、有利に敵と戦うことができた。六空進出当初はラバウル、ガ島間の往復に航続力が足りないことが指摘されたものの、ブイン。ムンダという前進基地が稼働しているこの時点では、その懸念は過去のものである。上層部や技術者の机上の心配をよそに、204空の搭乗員たちは2号戦を愛機として使いこなしていたのだ。」・・・『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』(神立尚紀、光人社)

 初陣から3ヶ月で協同ではあるが大型爆撃機を9機、戦闘機を11機を撃墜している。空戦経験が多くなり杉田は確実に実力をつけてきた。
 2月も後半になるとガダルカナル撤退が一息つき出撃数は少なくなる。3月6日には小福田少佐が内地へ転出となり、後任がしばらく空席になり宮野大尉が事実上の総指揮官という立場になる。3月15日には、宮野大尉に正式に204空飛行隊長兼分隊長という発令がされ、戦いは次のフェーズに入っていく。










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