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杉田庄一物語 その56(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」 ダンピールの悲劇(ビスマルク海海戦)

  三月一日、この日、海軍の定期人事異動が発表され、二〇四空司令の森田千里大佐、飛行隊長兼分隊長の小福田晧文少佐が内地転勤となった。代わりの司令は杉本丑衞大佐が発令された。飛行隊長は発表がないまましばらくは宮野大尉がその任を負うことになった。後日、宮野は兼任で飛行隊長を任ぜられることになる。

 三月二日、早朝から雲の切れ間をぬってB17爆撃機、B24爆撃機、P38戦闘機、豪軍のボーファイター双発戦闘機など述べ四十機あまりが船団を攻撃するが、すでに上空哨戒中だった零戦十八機で撃退にあたった。敵四機を撃墜するが、陸軍輸送船「旭盛丸」が航行不能になり、第五十一師団長中野中将以下の将兵が護衛駆逐艦二隻に分乗して、ラエに先行することになった。二〇四空も八時十五分から十五機で哨戒任務にあたったが、敵機が去ったあとだった。二〇四空は十三時まで哨戒にあたり、午後は陸軍機が哨戒する担当になっており交代したが、再び敵機約二十機が襲ってきた。しかし、天候が悪くなり損害は軽微で済んだ。

 三月三日、快晴になった。前夜からたびたび敵機の接触があったが、最困難地点とみていたニューブリテン島西方の海峡を早朝にすりぬけ、船団はフィンシュハーフェン東方海域に達した。午前中は海軍が護衛を受け持つことになっているので、二〇四空と二五三空がその任を命ぜられていた。

 二〇四空は五時三十五分に一直の四小隊十二機が飛び立っている。指揮官は宮野大尉。二五三空も飯塚雅夫大尉以下十四機がすでに哨戒任務についていた。

 午前七時三十分頃、船団がクレチン岬南東役十四海里(約二十五キロ)に差しかかった時、南方から米豪連合の大編隊が現れる。高度三千メートルの位置でB17爆撃機が十三機、その上の高度五千五百メートル付近にP38戦闘機二十二機が傘のよう覆っていた。零戦隊は、これまでの米軍の行動予想から高度六千メートルに位置していた。すぐに反応したが、虚をつかれた形で船団への敵の攻撃に有効な防御を行うことはできなかった。

 八時五分にはカビエンに派遣されていた空母「瑞鳳」の零戦隊十五機も空戦に加わった。指揮官は、佐藤正夫大尉である。敵機は次々と増えていき七十機ほどになっていった。B17爆撃機とP38戦闘機の連携がよく、つぎつぎとスキップボミングで魚雷を船団に向けて放った。零戦隊は、B17に近づこうにもP38が上空から襲ってくる。さらに英空軍の双発戦闘機ブリストル・ボーファイター十三機、米軍のマーチンB26マローダー爆撃機、ダグラスA20ハボック攻撃機も参加し、最終的には敵機総数は百二十機ほどになった。六隻の駆逐艦も最大限の攻撃を加えたが、水面近く襲ってくる数多くの敵航空機に対して有効な防御戦闘を行えなかった。

 二〇四空の一直の戦果は、宮野大尉一機、中澤飛曹長三機(共同)、中根政明飛長一機、杉山英一飛長一機、山根亀治飛長二機で戦闘機九機の撃墜が記録されている。しかし、西山静喜二飛曹が未帰還、矢頭元佑飛長は敵弾を二発背中に受けて不時着水し、駆逐艦にひろわれたのち戦死している。

 米軍機が行ったスキップボミングというのは、爆弾を海面近くから「水切り」のように投下角度を浅くし、水面を跳ねていって命中させる方法である。スキップボミングは格段に命中率がよく、二回の攻撃で約九十機が二百五十キロ爆弾を投下し、四十七パーセントの命中率だった。通常の急降下爆撃の命中率が十五パーセント前後であることから、格段の効果だったことがわかる。後日、日本海軍航空隊も反跳爆撃としてとりいれるが、まったくうまくいかなかった。このことについては後述する。

 この攻撃により、輸送船七隻、海軍運送艦一隻、駆逐艦「荒潮」、「朝潮」、「白雪」、「時津風」が沈められている。わずか十数分で、陸軍の上陸部隊三千六百名が戦死する。目的地のラエに到着したのは第五十一師団長を含め八百五十七名だった。翌日の駆逐艦乗員などを含めると五千名以上が失われ、輸送作戦は失敗した。

 九時五十五分に森崎予備中尉のもと二直九機が出撃しているが、戦場についたときにはすでに敵機は引き上げたあとだった。この九機の中に杉田は第一小隊三番機として出撃している。空母「瑞鳳」戦闘機隊もB17爆撃機を三機、P38戦闘機を一機撃墜しているが、壇上滝夫上飛曹が自爆、牧正直飛長がB17に体当たりをして戦死した。

 この作戦が完全に失敗したことで関係者はそれぞれ敗因を分析しているが、航空兵力に圧倒的な差がついたことが共通認識であった。特に、三月三日の攻撃は豪軍をのぞけば、すべて米陸軍機によるものであり、山本長官もこの点に注目していた。米軍は陸軍機を増加してきていたのに対して、南東方面における日本軍航空兵力の損耗が激しかった。ラバウル、ブイン、ブカ、カビエンに展開している各航空隊の定数(配備すべき数)は三百四十八機であるのに、相次ぐ損耗で作戦可能な実数は零戦九十機を含んで約百六十機までに減っていた。

 もともとこの輸送作戦は航空の劣勢から無理と思われていたのに、甘い状況判断のまま作戦を押し切ったことが各方面から指摘された。これまでもガダルカナル島での輸送に使うなど駆逐艦のみが牛馬のごとく使われていて、現場の不満も高まっていた。ラバウルに帰還後に「朝雲」艦長岩橋透中佐は第八艦隊司令部に乗り込んで「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と怒鳴ったという。しかし、すでに主力艦艇を動かすための石油が十分にはなくなっていたことも考えねばならない。この日の戦いは、「ダンピールの悲劇」と呼ばれることになった。

 三月四日、この日も二〇四空は二直に分けて船団上空哨戒任務についている。このときの船団名は戦闘行動調書に書かれていないが、二十四機の零戦を派遣していることから、前々日にラバウルから出港していた駆逐艦「村雨」と「峯雲」の護衛と思われる。両艦は、「八十一号作戦」の陽動作戦としてコロンバンガラ島方面に出撃していたが、第五十一師団を乗せた輸送船団が壊滅したという報を受け、急ぎラバウルに戻るところだった。

 一直は早朝五時三十分から小福田少佐に率いられて四小隊十二機で、二直は入れ替わるように九時十五分から十三時四十分まで森崎予備中尉が指揮をして四小隊十二機、計二十四機の出撃であった。杉田は一直の第一小隊三番機で、小福田少佐の護衛についていた。一・二直ともに米軍機とは遭遇していない。米軍機はダンピール海域で前日に沈没し漂流している生存者と救助活動を行っている日本軍艦艇に対して掃討戦を行っていた。このとき、数日間にわたって連合国軍の航空機ならびに魚雷艇が漂流中の日本軍生存者を機関銃で掃射し、のちに連合国軍内で問題となっている。

 三月六日、「ダンピールの悲劇」のあとも米軍は攻撃の手をゆるめなかった。前日、ラバウルに戻ったばかりの駆逐艦「村雨」と「峯雲」が沈没する。両艦は早朝ラバウルを出発、補給物資として米入りのドラム缶や弾薬などをブインで積載し、コロンバンガラ島へと向かったところ、米巡洋艦三隻、駆逐艦三隻の攻撃を受けた。米軍側はレーダーと哨戒機によって日本軍側の動勢をつかんでいて、待ち伏せ攻撃を仕掛けたため一方的な展開となった。「ビラ・スタンモーア夜戦」あるいは「ブラケット海峡の戦い」と呼ばれている。この一連の敗北は、連合国軍が勢いをつけて南東方面を攻め上がってくる危機感を深めた。山本長官に、次なる手を打たねばと圧力をかけることになる。

 この日、二月二十一日に米軍が上陸したルッセル島方面でも動きがあった。ルッセル島の米軍上陸施設に対して五八二艦爆隊十二機が攻撃を行った。五八二空の零戦隊十八機と宮野大尉率いる二〇四空の零戦隊十七機で護衛を行っている。杉田は編成に入っていない。

 五八二空の艦爆隊が攻撃に入ると二〇四空の零戦隊はそれを覆うようにバリカン運動しながらともに降下した。五八二空の零戦隊も地上施設や海岸の船艇に対して銃撃を行った。この銃爆撃で敵の見張り所をはじめ陸上施設や船艇などを破壊した。攻撃が終わる頃に、グラマンF4F戦闘機とロッキードP38戦闘機、数十機が迎撃にあがってきて空戦になった。二〇四空は、空戦に加わらず艦爆隊の護衛を行っている。しかし、空戦に巻き込まれたのか加藤正男飛長がルッセル島付近に不時着、未帰還となった。また、五八二空では支那事変での「片翼帰還」で国民的に有名だった樫村寛一一飛曹も空戦の末、海中に突っ込んで未帰還となった。

 三月七日、この日、小福田少佐が二〇四空隊員たちの「帽フレ」に見送られ、輸送機でラバウルをたち内地へ向かった。小福田と宮野が二人で築いてきた新しい空戦への改革時代もこれで一区切りとなった。二人が育てた若い搭乗員たちは確実に力をつけてきていた。

 小福田は、帰国後の四月六日付で横須賀航空隊(横空)に配属になり、二〇四空での経験をもとに「戦訓による戦闘機用法の研究」を提出する。

 三月十四日、二〇四空は、午後から川原茂人中尉を指揮官として零戦二小隊六機が船団上空哨戒任務に出撃した。川原は、小福田少佐と入れ替わりに六人の搭乗員とともに二〜三日前に着任したばかりであった。みなぎる闘志をあらわにした青年士官で、手をぬいているとすぐに鉄拳で気合をいれられるので下士官兵たちも緊張を強いられた。

 この頃の二〇四空は、零戦も搭乗員も消耗していた。激戦を戦い続けている二〇四空への補充は優先的に割り当てられ、内地や他の隊から即戦力となる渡辺秀夫一飛曹、辻野上豊光一飛曹、鈴木博一飛曹ら十二名の戦場経験者が三月から四月上旬にかけて転勤してくることになる。

 渡辺秀夫はのちに士官級が一時みな戦死していなくなった時、下士官ながら二〇四空を中隊長代理として指揮をとった。部下から信頼され、杉田もその二番機として多く飛んでいる。杉田が重傷を負った空戦で、同じく顔面を撃たれる重症を負っている。飛び出て目玉を押さえながら帰着し、他の隊員たちを驚かせた。

 辻野上豊光は九七戦での空戦経験はあるが、零戦に乗るのは初めてだった。山本五十六長官の護衛する六機に杉田と共に選ばれることになる。


<引用・参考>



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