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杉田庄一ノート87 昭和17年4月6日「海軍第六航空隊開隊」

 昭和17年3月31日に大分航空隊での戦闘機訓練課程を終え、一週間の旅行期間をもらって4月6日に木更津基地の第六航空隊に着任する。大分航空隊から戦闘機搭乗員として同時に転勤したものは15人である。予科練、操練、大分空と一緒だった杉野計雄三等飛行兵曹や谷水竹雄三等飛行兵曹も含まれていた。

 第六航空隊は、昭和17年4月1日に新編成されたばかりの航空隊で、このあと行われるだろう米豪遮断作戦を見据え、台南海軍航空隊と第三航空隊の下士官搭乗員を軸に前年末や3月末に戦闘機課程を終えた杉田らの新人戦闘機搭乗員で構成されていた。司令が森田千里大佐(海兵四十九期)、飛行長は玉井浅一少佐(海兵五十二期)、飛行長は新郷英城大尉(海兵五十九期)、先任搭乗員は岡本重造一等飛行兵曹(操練三十一期)という幹部構成だった。

 出来上がるのを待って新品の九六式艦上戦闘機15機、零式戦闘機30機をそろえ、米豪遮断作戦に備えた訓練を行なった。九六戦と零戦とを並行して使用し、訓練しているため自然に両戦闘機の比較をすることになった。杉野氏は次のように述べている。

 「先輩たちが零戦を領収して空輸して来るたびに、列線が賑やかになる。十機、二十機、三十機と増えて来ると力強さを感ずる。そうして、九六戦から零戦の訓練に進んでいった。零戦が高馬力、高速で、じつに安定のよい飛行機に驚くばかりであった。定着訓練も、九六戦より安定して容易である。定点を銃眼口から覗く九六戦にくらべると、視界がきわめて良好であり、安定した定着ができた。また、高高度の操縦訓練も、九六戦より性能はよく、何から何まで申し分のない飛行機であった。」

 ただ、一つだけ欠点として、胴体タンクから翼内タンクへ燃料を切り替えるときにうまくエンジンが起動しないことがあり、杉野氏は暴風林の杉林の中に突っ込む不時着事故を起こした。杉野氏は無事だったが、開発者の堀越二郎技師が現場調査に来て改良を行うことになった。

 4月18日に、アメリカ機動部隊が航空母艦ホーネットからB-25爆撃機を発進させ東京空襲を行なった。陸軍の双発爆撃機を空母から発進させ、極めて遠距離から東京を空爆して、そのあと中国へ飛行するという、ドゥリトル大佐による極めてチャレンジングな作戦計画であった。空爆による被害は、それほど大きくはなかった。このとき事前に機動部隊接近の報があり、第6航空隊も18機の零戦を発進させ、機動部隊を索敵したが会敵できず、帰還している。このB-25による東京空襲は、日本中を震撼させた。太平洋戦争緒戦での連戦連勝で湧き立っている日本国民に、そして、次の侵攻作戦を進めようとしている日本軍に冷や水を浴びせかけることになった。このため米豪遮断作戦としてミッドウェイ作戦が急遽進められることになる。山本五十六はミッドウェイを押さえた上でアメリカとの講和を進める腹づもりであったが、スケジュールを早めなければいけなかった。搭乗員の練度はまだ足りなかったのに驕りをもったまま、拙速な計画を実行することにもなった。これはのちのち響いてくることになる。このあと、日本海軍の作戦計画はすべて後手後手となっていくのだ。結果として、このドゥリトルの東京空襲がターニングポイントになった。

 第六空は、この作戦でミッドウェイ島を攻略した後に進駐し、ミッドウェイ基地航空隊となる計画になっていた。そのため、森田司令や新郷飛行長に率いられ航空母艦『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』に便乗して作戦に参加する隊と、宮野大尉を指揮官として航空母艦『隼鷹』で後を追う別動隊とに分けられた。杉田も別動隊に入っていた。

 6月5日のミッドウェイ作戦は日本軍の大敗北に終わり、航空母艦が全て沈んだ。なんとか生き残った隊員は、木更津基地に戻って来ると、情報を秘匿するために隊舎に衛兵付きで閉じ込められ、しばらくは罪人扱いのようだったと前述の杉野氏が書いている。また、宮野大尉に率いられた杉田らの別動隊は、6月24日に帰着した。このあと、第六航空隊はラバウルに進出するために再編される。杉田はそのまま第6航空隊に残っていたが、杉野氏や谷水氏は母艦搭乗員として転勤して行った。



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