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川崎 二式(複座)戦闘機「屠龍」(1943)

 二式戦闘機『屠龍』は、川崎航空機のつくった双発戦闘機である。二式戦闘機というのは、皇紀2602年(昭和17年)に制式化されたことを意味しているが、この年に制式化されたは2種類ある。単座戦闘機『鐘馗』と複座戦闘機『屠龍』である。ここでは二式(複座)戦闘機を取り上げる。

 二式戦闘機『屠龍』、長距離爆撃の護衛を主任務として設計された。主設計者は井町勇技師であったが、当初のせられたハ20エンジンが馬力不足で、思うような性能を出せく不採用となる。そこで、定評のあるハ25エンジンに換装し、主設計者を土井武夫氏(三式戦闘機『飛燕』や五式戦闘機の設計でも有名)として再度チャレンジするがやはり不採用。3度目の正直で、エンジンをハ102(1080馬力)に換装、『九九式双軽爆撃機』の基本設計を流用した新設計でようやくクリアした。

 第一次世界大戦後、敵を攻撃する主体である爆撃機(攻撃機)の性能が向上し、速度や航続距離が飛躍的に伸びた。爆撃機(攻撃機)のように燃料タンクに余裕がない戦闘機では航続距離が稼げないし、速力も爆撃機(攻撃機)より優っている必要がある。なかなかそんな戦闘機はない、であれば爆撃機(攻撃機)だけでいいということだ。しかし、そんな構想も迎撃専門の戦闘機が配置されると、爆撃機を守戦闘機はやはり必要ということになり、それでは双発で大型の長距離戦闘機を作ればいいっていうんで世界各国で同じような目的の戦闘機(メッサーシュミットMe110やブリストル・ボーファイターなど)が誕生した。日本陸軍の二式戦闘機『屠龍』もその一つだ。

 ところで、双発の長距離戦闘機はイギリスのモスキートやアメリカのP38などを除き、ほとんどが失敗している。航続距離は稼げても速度や空戦性能で劣り、迎撃戦闘機の餌食になってしまうのだ。特にMe110などは、Me110の護衛に単発戦闘機をつけなければならないなんて本末転倒の事態まで引き起こしている。ただ、夜間戦闘機や防衛のための戦闘機として再び戦場に出されることになったものも多い。複数の搭乗員によりレーダーや電子機器などを積載でき、当初とは違うプラットフォームとして使われた。

 『屠龍』も速度が遅いことや空戦性能が単発戦闘機に劣ることから侵攻作戦ではあまり戦果を残せなかった。しかし、射撃する時に安定した飛行ができたため(座布団のようだと評された)、斜め銃や大口径の砲を積むことができ本土防空戦に活躍の場をあたえられた。二式戦闘機のニックネーム『屠龍』の名前も、この活躍にふさわしいものかもしれない。龍(B29)を屠る・・・英語にすれば、ドラゴンスレイヤーだ。本土防空戦が行われた頃、性能的には非力であったが操縦員の努力で戦果をあげることができた。総生産機数は、1,704機だった。

 特筆すべき戦果として樫出勇氏のB29撃墜26機をあげられるだろう。当時、高度1万メートル以上を巡航速度で長距離を飛ぶことのできたB29は、世界一墜としにくかった爆撃機であった。逆に返り討ちにあってその強力な武装で墜されてしまう戦闘機も多かった。そんなB29を世界一多く墜としたのが樫出勇氏である。

 樫出勇氏は大正4年生まれで、新潟県刈羽郡北条村で七人兄弟の四男として生まれ、昭和九年に陸軍少年飛行兵第1期生として所沢陸軍飛行学校に入学、明野陸軍飛行学校を経て、昭和十一年、飛行第1連隊に配属。昭和十四年に九七式戦闘機でノモンハン航空戦に参加し5機撃墜している。少尉候補生として陸軍士官学校を卒業し、少尉任官。太平洋戦争では、山口県小月基地の二式複座戦闘機『屠龍』部隊に所属し本土防衛任務にあたった。

二式複座戦闘機『屠龍』
乗員 2 名
全長 15.07 m
全幅 11.00m
全備重量 4,000 kg
発動機 ハ102 空冷複列星型14気筒エンジン(離昇1,130hp)×2
最高速度 547 km/h
航続距離 1,920km
武装 7.7mm(旋回)×1 12.7mm×2 20mm×2

> 軍用機図譜






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