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杉田庄一物語その6 第一部「小蒲生田」予科練志願

 杉田の履歴書を見ると当初から航空兵になっておらず、いったん海兵団に入ったあと整備兵に所属しながら丙種予科練生となっている。予科練制度について少し触れておく。

 航空機が兵器として重要だと認識され出したのは昭和の初めの頃である。いち早く、次代は航空機が主力になると思っていた少将時代の山本五十六によって日本海軍も航空隊が整備され出した。しかし、大きな問題があった。操縦士の養成には数年単位の時間と莫大なお金がかかるということである。また、指揮官を養成する海軍兵学校だけでなく、実際に戦場で戦う下士官や兵の操縦士も必要になるが一般兵のようには簡単に養成できない。海軍兵学校とは別に、学力も高く身体能力も高い下士官兵を大量に養成するシステムをつくらなければならない。

 そこで、当初は部内から優秀な兵を選出し操縦練習生(操練)として養成するコースと志願兵を募り飛行予科練習生(予科練)として養成するコースが設けられた。そして、航空機による戦争が現実味を帯びてくると航空機搭乗員をさらに多く育成する必要に迫られてきた。杉田の受験時期に予科練制度が大きく変わって、予科練も甲種・乙種・丙種の三つのコースが設けられることになり、霞ヶ浦航空基地に練習航空隊が設置された。

 甲種予科練生は、旧制中学校四学年一学期修了以上(昭和十八年十二期生より三学年修了程度と変更)の学力を有し、年齢は満十六歳以上二十歳未満の志願者から選抜され、幹部搭乗員となることを目的としていたため昇進も早い。

 乙種予科練生は、応募資格は高等小学校卒業者で満十四歳以上二十歳未満であり、以前からあった予科練制度の名称変更である。

 丙種予科練生は、機関兵や整備兵など他科の下士官兵の中から隊内選抜を経て操縦練習生となる制度で、以前は予科練に対し操練と呼ばれていた。優秀な搭乗員を多く輩出していたので操練はうまいという定評があった。

 甲種予科練の教育期間は一年八ヶ月、乙種予科練は三年、丙種予科練は、六ヶ月だった(しかし、戦局が押し詰まってくると甲種、乙種とも十ヶ月、丙種は三ヶ月になる)。

 ただ、この新しい予科連制度は甲種・乙種・丙種という名称があったことで、各予科練間での軋轢が生じ、大きなしこりを残す。当時の学校の成績評価は甲乙丙でつけられていたので、評定が強く想起されたからである。この階級の差は多くの現場で人間関係を悪くしてしまう原因になったのである。

参考

現在、霞ヶ浦の予科練跡地に予科練平和記念館が建てられている。





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