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杉田庄一ノート18:昭和20年3月から4月〜「三四三空隊誌」その4

(写真は343空時代の菅野直大尉・・・空戦について模型で説明中)

 昭和20年春の「343空」・・・「ベテランだけでなく若手も多い。編隊空戦の練度をあげるためにもうあと一月は訓練期間が欲しい」と源田司令は思っていた。しかし3月1日に硫黄島が玉砕し、アメリカ軍の機動部隊が日本本土に接近することとなった。3月17日にはアメリカ軍機動部隊は四国南方沖まで接近し、18日は九州南部を空襲した。19日も本土への空襲が予想され緊張感が増していた。以下、志賀飛行長の記録である。

 「三月十七日、敵機動部隊四国南方海面に接近し、翌十八日敵は九州南部 に来襲した。司令は、明朝敵は呉軍港来襲と判断され、各隊、各科明早朝に向って万全を期して準備に入った。司令は一睡もされない。これに従う中島副長以下、それぞれ気を配って水も漏らさぬ構えに集中した。
 三月十九日〇五〇〇搭乗員整列
 内海地平なお暗く、島影未だ見えず、東方山脈の稜線のみクッキリと浮かぶ。
 〇五四五彩雲ニ機、続いて一機発進し四国南方海面の索敵偵察に向か った。発進の後はそれぞれ単機となって、敵空母の想定海域に向かって先拡がりに、指定された扇形線上を黙々と飛んだ。(彩雲は誉11型エンジン1基を搭載する三座の高速機で、中島飛行機製の新鋭であったが七.七粍旋回機銃一基という軽武装で防弾装備は一切なかった。)
 その第一の任務は、進攻して来る敵飛行機群第一波の発見報告であり、各機は概ね足摺岬と室戸岬を結ぶ線上において、南方海域から北上して来る敵を把握するはずであった。
 果せる哉、 〇六五〇、高田満少尉を長とし影浦博上飛曹を電信員、遠藤稔上飛曹を操縦員とする彩雲一一型(三四三—四号機)から「敵機動部隊見ゆ、室戸岬の南三〇浬」の第一報が入電し、「全員即時待機」が下令された。
 続いて「敵大編隊四国南岸を北上中」の入電に接し、「全機発進」が下令された。
 半時前、搭乗員整列で「古来、これで充分という状態で戦を始めた例は 一つもない。目標は敵戦闘機」と簡にして凜とした司令の訓示を胸に、闘志満々の各隊は堂々と相次いで離陸し『充分な高度で隊形を整え終って、一呼吸してから長くても十分以内に会敵させれば最高』と、かねてから念願された源田司令の作戦理念は茲に実現し、緒戦の勝機を掌中にされたのである。」 

 「松山基地見張員が上空に敵編隊を発見し、地上から無線電話で「敵編隊、飛行場南西、高度四〇〇〇」と通報した時は、既に直援隊山田良市大尉も発見しており、上空支援の位置を占め、総指揮官戦闘七〇一隊長鴛渕大尉からは「我既に敵を発見、空戦に入る」と平素と変わらない明るい張りのある声が無線電話で地上に返えってきた。」
 (山田良市大尉は、戦後鴛渕隊長の妹と結婚する。航空自衛隊に入り、最高位の航空幕僚長までになる。また、1964年の東京オリンピックでブルーインパルスが空中に五輪を描いた時の地上指揮官を務めた。)

 「既に山田直援隊支援の下、維新隊十六機は整々果敢の編隊攻擊に入り、各機二十粍四挺の弾雨を集中する下で、F6Fが一機また一機と火を噴きながら編隊から脱落して行く様は、正に念願の快挙であった。 それはまた、かつて零戦隊が太平洋を制した往時の姿が、今ここに甦るかの如き紫電改初陣の姿でもあり、司令以下粛然として空を注視し一同暫し無言であった。
 天誅組林隊長の率いる十六機もほとんど同時にその西方海上に位置して、北上して来るF6F三十機を捕捉して怒濤の如く一斉攻撃に移り、ここてもF6Fが相継いで墜ちて行く有様であった。先発した市村隊四機は伊予郡広田村上空に別動してF6F八機を捕捉墜破したが、その頃維新隊の渡辺幸博中尉 (二十一才)の区隊は、さらに敵を求めて〇八ニ〇中山町西方海上からF6F約一〇機に攻擊をかけ、渡辺中尉は一機撃墜の後爆している。
 松崎大尉、石川、遠藤上飛曹、信田、竹島ニ飛曹はそれぞれ戦果を挙げて中山町西方海上で〇七一二以後、自爆あるいは未帰還となった。
 最後に離陸した新選組菅野隊長の率いる十八機は、飛行場東方に出て、大崎上島上空にF6F五十五機の一群を捕捉し、十八機一丸となって猛烈果敢に降りかかり、遂次血祭りにあげていった。なかでも杉田、加藤、日光上飛曹等の勇戦は物凄く、地上の喝采を博したが、〇七一五以後、井上中尉、日光、久保上飛曹が自爆あるいは未帰還となり、菅野隊長は被弾して落下傘降下し、地元住民の手厚い応待と手当を受けて陸路帰隊した。」

 日本軍機が撃墜されたときには「撃墜」と記録されず、「自爆」とされた。杉田も離陸時にF6Fによって明らかに叩き落とされた形なのに戦闘記録では「自爆」となっている。

 菅野隊の活躍(杉田、加藤、日光)が書かれているが、この日の杉田区隊は編隊空戦で五機を撃墜し、源田司令から編隊に対して感状が出されている。また、菅野隊長は被弾したが落下傘によって生還している。このいきさつは、碇義朗の『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』に詳しく書かれている。

 この日の空襲では松山基地も襲われ犠牲者を出す。
「尊い犠牲は地上にも起った。〇八ニ〇空襲の合間を縫って着陸した林隊長が、下鶴、中島上飛曹を率いて出擊すべく補給を急いでいるとき、突然 F4Uの一隊が地上銃撃に入って来た。退避の下令、地上銃火の応戦のなかで既にエンジンが唸っていた中島満夫機の車輪止めを外しにかかってい た北川孝四郎二等整備兵曹も必死であった。その瞬間、敵機の弾幕は地を這って迫り、中島上飛曹は機上で、北川ニ整曹は翼下で壮烈な戦死を遂げた。」

 また、第一報を伝えた偵察機「彩雲」も敵編隊(40機+20機+40機で構成された3群の戦爆連合)に囲まれたあと、高知県高岡郡津野村上空で敵機二機を道連れに文字通りの自爆を遂げる。この戦闘に対しては連合艦隊司令長官から感状が出された。後日、その地に慰霊塔が建てられた。

 戦果を挙げたが、沖縄が主戦場となるのは明らかであり、4月1日アメリカ軍は沖縄本島に上陸を開始する。343空も4月上旬、五航艦の制空部隊として鹿屋基地に進出する。『菊水2号作戦』が発令され、4月12日に特攻機空路啓開を目的として菅野大尉を隊長として出動する。その時も、「杉田兵曹、笠井兵曹大活躍」と田村恒春さんの記録にある。そして、4月15日を迎える。この日のことを下記のように志賀隊長は記している。
 「四月十五日一四五〇、即時待機が発令された。飛行場指揮所への情報は 『敵編隊、種子島北上中』続いて『佐田岬上空』と伝えられた。『早いぞ‼︎』 と感じて見張る上空にキラッと光る機影があった。小型機である。『発進止めます!』と報じて信号機を卸し、列線に伝令しようとした時には既に紫電改がー機、続いてさらに一機西に向って離陸を始めていた。も早止める術もない。万事休すと仰ぐ上空に敵の一群は流星の如く一直線に降っている。奇蹟を祈り見守る目の前で一番機は高度五十米にも達しないまま翼を裏返して滑走路の外れに消えた。這うようにして遠ざかる二番機も降り注ぐ射線の下にあった。事態は瞬間に起り瞬間に去った。一番機は杉田庄一上飛曹、二番機は宮沢豊美一飛曹であった。待機列線も例外ではあり得なかった。間に合って離陸を止め避難した一群のうち、下川学上整曹も敵弾に斃れた。」

 4月15日の杉田の死は、源田司令が戦後まで悔いを残すことになった。「敵機発見、出撃せよ」の指令にいち早く反応したがために杉田区隊が犠牲になり、杉田と二番機の宮沢一飛曹が戦死した。三番機の笠井さんは機が発信する前に炎上し逃げおおせた。杉田区隊の日頃からの猛訓練の成果をこんな形で記すことになってしまったのだ。





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