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杉田庄一物語 その51 第五部「最前線基地ブイン」 船団護衛任務

 昭和十八年一月十七日、午後から野田隼人飛曹長を隊長として零戦九機で水上機母艦「香久丸」(かぐまる)上空哨戒任務についている。十四時三十分に出発し、哨戒中なにごともなく十六時五十五分に帰着した。この日から杉田は久しぶりに編成に入り、二小隊二番機として飛んでいる。ところで、着陸の際に丸山武雄二飛曹が滑走路の窪みに脚をとられて転覆した。ブインの滑走路はあいかわらず離着陸が難しかったのだ。丸山の意識はしっかりしていたが首の骨を折っていて四日後に死亡した。

 一月十八日、早朝に水上機母艦「香久丸」上空哨戒任務が行われたが、杉田はこの編成に入っておらず、午後に来襲した敵機の追撃にあがっている。昼頃にB17爆撃機が八機、P38戦闘機が六機、基地南方に表れた。野田隼人飛曹長を指揮官として三小隊九機が迎撃にあがった。杉田は第一小隊二番機として出撃している。敵機を発見したものの追いつくことができず基地に引き返している。

 一月十九日、輸送船護衛任務はあいかわらず続いていて、この日は特設艦船「阿蘇丸」の上空哨戒を三直でおこなった。一直は十時十五分から十三時二十五分まで宮野大尉を指揮官として三小隊七機がおこなった。二直は十二時から十五時三十分まで小福田少佐を指揮官として三小隊七機が任務についた。このとき第一小隊二番機として杉田は出撃している。第二小隊長は任官したばかりの島川だった。三直は十四時十五分から十七時十五分までで三小隊八機を澁谷清春中尉が率いた。


十七日の編成調書


十八日の編成調書


十九日の編成調書

 この頃の杉田は指揮官機の二番機についていることが多い。編成搭乗割はその日の指揮官が決めるのだが、指揮官機を護衛する二番機は信頼のおける搭乗員をあてられることが多い。指揮官機は隊全体の空戦を見なければならないため、自身の安全を任せられる二番機が必要となるのだ。上官たちの杉田に対する信頼度が高くなっていた。

 一月二十日、早朝、B17爆撃機が十五機、P38戦闘機が四機、基地南方に来襲した。森崎予備中尉を指揮官として十七機の零戦が追撃にあがっている。P38を二機(不確実一)、B17を一機(不確実)撃墜している。

 この日の護衛任務は輸送船「旺洋丸」で、一直と三直を二〇四空で、二直は二五二空と分担しておこなっている。一直は十時四十分から十三時二十分まで。野田飛曹長を指揮官として三小隊九機で出撃している。三直は、再び森崎予備中尉を指揮官として十四時三十分から十七時までで、三小隊八機が上がっている。杉田は第二小隊二番機として神田佐治二飛曹について飛んだ。この日の三直からも着陸時に大破した零戦が出た。

 一月二十三日、十二時から十七時にかけて駆逐艦「大潮」、輸送船「第二東亜丸」の上空哨戒を二直に分けておこなっている。二直目の澁谷隊がグラマンF4F戦闘機二十機と空戦し、五機を撃墜(一機不確実)したが、指揮官の澁谷清春中尉と福田作一飛長が自爆と記録されている。澁谷は着任して二ヶ月、将来を期待されていた。福田も一月十一日の初出撃以後に五機撃墜の戦果を上げていた。二機とも、大きく左旋回上昇中に左下方からグラマンの十二・七ミリ機銃で撃ち抜かれている。高度的優位にあっても米軍の十二・七ミリ機銃は直進性がよい上に発射弾数が多く、逃げられなかった。

 ブイン基地では、このような体勢の時の対処法について研究がなされた。空戦の訓練で身に付けた「ひねりこみ」が有効のようだとされたが最終的な結論は出なかった

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