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杉田庄一ノート34:昭和17年11月ブイン進出

太平洋図(白地図)ブイン

 11月1日、第6航空隊本隊は第204航空隊に改称し、ブインに進出した。ミッドウェイ海戦でベテランがほとんどいなくなり、少数のベテランが予科練を出たばかりの若い搭乗員に戦闘訓練をしながら船団護衛任務についていた。

 11月3日の護衛任務では3機編隊の一番機と二番機が行方不明になり、ベテランの搭乗員二人が失われる事故がおきる。三番機の搭乗員は杉田だった。島川氏の「島川正明空戦記録」から顛末を追ってみる。

 「十一月三日、明治節(現、文化の日)である。内地にあれば、ささやかなご馳走をいただき、朝から外出がゆるされるのだが、ここ第一線ではそうはいかない。今日もまたきびしい任務飛行、ガダルカナル輸送部隊の上空哨戒である。
 一直隊長川真田勝敏中尉、二番機竹田彌飛長、三番機杉田庄市飛長(原文ママ)、二小隊長岡崎正喜上飛曹、二番機丸山武雄二飛曹、三番機加藤好一郎飛長、三小隊長島川正明飛長、二番機杉山英一二飛曹(甲6)、三番機小林友一飛長の編成である。
 飛長である小隊長の私にたいし。二番機は下士官である。戦闘機の世界は実力の世界であり、階級ではない。艦に重点をおいた保守的帝国海軍の古くさい体質は、パイロットの養成、用兵面に立ち遅れを生じ、階級と実力がマッチせず、しばしばこのような矛盾が生じたのである。
 (・・・このあと、米海軍の指揮官と階級についての記述がある)
 さて、午前三時五十分、闇の中の出撃である。基地はもちろん、進行方向の天候もきわめて悪い。雲間を縫って飛行すること約一時間三十分、イザベル島北東部に達し、夜は完全に明けたが気象条件はますます悪化し、平常なら基地出発時に当然、取りやめるべき状態にあった。
 だが、人員と重要物資を積んだ大型船団であり、大きな犠牲をはらおうとも、とにかく護衛しなければとの意気込みをもって、発進したのである。
 しかし、視界矮小のため、ついに引き返す結果となった。往時はなんとか飛行できた状態は、極度に悪化し、中隊は雲中に突入してしまった。
 この時点から、各小隊は分離し、個々に基地に向かった。私は列機をまとめ、ときどき後方に目を配り、はげましあいながら、あるいは雲上に、そしてまた雲下にと必死の思いでようやく基地に辿りついた。列機は私を信じよくついて来てくれた。
 だが、この日、玉井を卑怯者よばわりした川真田中尉と、二番機の竹田飛長が帰らぬ人となった。いますぐ重要任務に耐え得る数少ないパイロットを、一気に二名も失ったのである。これまた天候のなせる業であった。」

 三小隊の編隊で哨戒任務に向かうが、視界が悪く護衛に向かう途中で引き返さざるを得なくなる。分隊ごとにバラバラになって雲中飛行を行い基地に戻るが、第一小隊が遭難するのだ。一番機と二番機は、雲中で衝突し墜落したことが予想される。三番機の杉田だけが単独で戻ってくる。何が起きたかは書かれていないが、「天候のなせる業」がラバウルについてから続いており、その裏には搭乗員の操縦技量の未熟なまま前線に出て来たという裏の事情がある。

 島川氏のこの文の中には二つのトゲがある。一つ目のトゲは、「飛長である小隊長の私にたいし。二番機は下士官である。」という表現である。11月1日をもって下士官兵の階級制度が変更したことは、前述した。島川氏はすでに歴戦のベテランであるにもかかわらず、操練出身者ということで丙種予科練相当に置き換えられ「飛長」(飛行兵長)となった。「飛長」は兵としては最上位ではあるが、下士官ではない。杉田も操練→丙種で、前線に出たばかりなのに「飛長」となった。しかも、1日だけ「1飛」(一等飛行兵)を命ぜられ、つじつまをあわせて「飛長」(飛行兵長)に昇進したのだ。
 しかし、それ以上の問題は「甲種」との格差の問題である。海軍は飛行下士官を速成するために予科練制度を、「甲種予科練」「乙種予科練」「丙種予科練」の3つにわけた。「甲種」は中学校を卒業していることが条件となり下士官への任官が早かった。「乙種」はこれまでの予科練制度と同じで高等小学校卒が条件である。「丙種」は、水兵など他種からの転科して飛行兵になる「操練(操縦練習生)」制度出身者をいい、一番古くから歴史がある制度だった。「丙種」とされたが「操練」出身者はほんとうに操縦がうまかったという証言はいろいろなところに書かれている。
 島川氏は前述のようにベテランであるにもかかわらず操練出身者なので「飛長」、つまり飛行兵の長である。二番機である杉山二飛曹にはあえて(甲6)と書かれており、甲種予科練6期生ということがわかる。「二飛曹」は二等飛行兵曹である。二等とはいえ、曹つまり下士官なのだ。一番機小隊長の島川氏より、二番機の杉山二飛曹の方が階級が上になってしまったのだ。合理性を通したこのような予科練制度改革は、甲種予科練と他種の予科練とに大きな軋轢を生じさせたのだ。
 もう一つの「トゲ」は、川真田中尉への「玉井を卑怯者よばわりした」という表現である。名前の出た玉井勘搭乗員は、ミッドウェイ海戦をともにした島川氏の戦友で、川真田中尉から「貴様は卑怯だ」とハッパを喰らった直後に悪天候の中を発進し行方不明になっていた。「卑怯」という言葉にある不名誉な罵りと悪天候の中の発進に島川氏はひっかかっていた。

 11月はベテランを中心に船団護衛やガダルカナル島の上空制圧の任務が続くが、零戦や搭乗員の消耗が激しかった。零戦は二号戦(52型)が入って来ていた。島川氏は、空戦中に慣れない二号戦(52型)で二段過給機装置のレバー切り替えを忘れて慌てたということが書かれている。

 ラバウルについてからの第6航空隊(第204航空隊)の不運続きやあまりよくない雰囲気が島川氏の記録から伝わってくる。
 






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