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杉田庄一ノート40:昭和18年4月18日「海軍甲事件の搭乗割り」

 山本五十六司令長官の護衛に6機の零戦しか付けなかったことは、司令部が安全と見込んでいたことや山本本人の意志があったことなどさまざま指摘がされており、その根拠資料もある。しかし、搭乗員をどのようにして決めたのかということにかねてから気になっていた。神立尚紀氏は、『零戦隊長 宮野善次郎の生涯』(神立尚紀、光人社)の中で「なぜ、この6人が選ばれたか」ということを推測し、次のように記述している。

「なぜ、この六人が選ばれたのか。
 航空記録がほとんど現存しないので、搭乗技倆を直接計るものさしはないが、飛行時間をそれぞれの教程で同クラスの搭乗員と比較して推計すれば、森崎予備中尉.六百時間弱、 日高上飛曹.千時間強、辻野上一飛曹.六百時問強、岡崎ニ飛曹、柳谷飛長、杉田飛長で 四百〜五百時間というところであろう。飛行練習生や飛行学生を卒業して、新たに実施部隊に配属される時の飛行時間は約二百時間、隊長の
野大尉でも千百〜千ニ百時間ほどのはずだから、いずれも、当時第一線に出ていた戦闘機搭乗員としては、まず中堅どころと言える。
 指揮官を誰にするか、これは、士官搭乗員は宮野と森崎しかいないのだから、二者択一である。聯合艦隊司令官の前線巡視となれば、当然、宮野が行くのが順当であろう。しかし、 宮野はこの日の指揮官を森崎に譲った。飛行隊長自ら行かなくてもよいという判断である。
 「宮野隊長の気性から言って、必要なら自分が行く人ですから、危険はないと判断したんでしよう」(中村飛長談)
 宮野も最初は「二十機つけましよう」と進言したぐらいであるから、当然「私が行きます」とは言ったであろう。が、司令部が六機でいいと言うし、おそらく司令、飛行長からも隊長が出ることはない、休んでよし、と言われたのであろう。しかしそれでも、押して宮野 が行くと言えば宮野が指揮官になったはずである。
 ではなぜ森崎に、ということを考えながら、ニ〇四空戦閼行動調書を繰ってみると、あることに気づく。それは、森崎が、三月十九日、敵船団攻繫隊直掩の三中隊長として出撃して以降、一力月近くにわたって搭乗割に入っていないことである。理由はアミーバ赤痢であった。短期間の人院ののち、指揮所には出ていたものの、なかなか作戦に出られる状態にはならなかった。マラリアやデング熱、アミーバ赤痢などの風土病で搭乗員が半月や一月、出撃を休むことはよくあって、大原飛長もこの時期、やはりマラリアで休んでいる。ともかく森崎は「い」号作戦でも一度も出繫の機会を得なかった。大きな作戦は全部、宮野が指揮官で、 森崎がつくべき中隊長の任には野田飛曹長、日高初男飛曹長、時には尾関上飛曹があたり、 森崎としても内心、忸怩たるものがあったのではないか。
 大作戦が終わり、病気が快方に向かった今、陸攻の護衛ぐらいは自分が行って隊長の負担を軽くしようという自発的な意思があってもおかしくはないし、司令、飛行長、宮野として も、「い」号作戦で出番のなかった森崎に、せめてここで花を持たせてやろうという気持になったとしても不思議ではない。もちろんこれは、危険空域で空戦を行なうことを前提にした判断ではない。「儀礼的」たる所以がここにある。それでも、四月三日、長官一行が飛行艇でラバウルまで出迎えて随伴、護衛したのが二〇四空の杉原新平一飛曹、斎藤章飛長、井石時雄飛長の三機でであったことと比べれば、充実した陣容ではあった。」

 マラリア、デング熱、アメーバ赤痢は南方戦線ではほとんどの兵隊がかかったと言われている。アメリカ軍も悩まされたが、DDTなどの殺虫剤を投入し駆除につとめることができた。日本軍では、戦死よりもこれらの病気で体力をなくし、食料がつきて亡くなるケースが多かった。治療などが優先される飛行隊でも予防措置はあまりできず、治療薬と休息で回復を待つしかなかった。
 隊長の搭乗員選抜はおそらくこの通りであったのだろう。任務としては危険があまりないと考えられていたことは、多くの証言が裏付けている。では、その他の搭乗員の選出はどうであったか、神谷氏の推理は次の通りである。

 「危険はないものとして、このところ過重な出撃が続いている野田飛曹長、日高初男飛曹長、尾関上飛曹の三人のベテランを休ませるとすれば、ニ小隊長を務めるべき上飛曹クラスの搭乗員は日高義已上飛曹しかいない。列機も、ニ機の擊墜記録を持つ大正谷宗市一飛曹や八機の撃墜を記録している大原飛長は病気療養中、七機を擊墜している神田ニ飛曹は不時着して潜水艦で帰ってきたばかり……。となると、残った搭乗員の中から、実戦経験は少ないながらこのところ頭角を現わしてきた甲飛出身の辻野上一飛曹、岡崎ニ飛曹が選ばれたのも理解できるし、丙飛出身で階級こそ兵長だが、前年秋からそれぞれ十分な実戦経験を積み、この方面の空域を熟知している柳谷飛長、杉田飛長が選ばれたのもごく自然な成り行きである。
 この日、出擊可能であったはずの搭乗員のうち、彼ら以上に実績のある搭乗員は他にもいて、必ずしもベストメンバ—とは言えないかも知れないものの、編成のバランスはよくとれて、外観上も実質的にもまずは過不足のない、順当な搭乗割と言えるだろうか。」

 この時の編隊は伝統的な日本軍の3機編隊で一区隊、二区隊で一小隊であった。この頃のアメリカ軍は2機のエレメントによる4機編隊で一区隊編成である。204空では、宮野隊長の提案で5月28日の出撃からアメリカ軍と同様の4機編隊の編成を試している。1番機と3番機、2番機と4番機がエレメントになり、2機2機で相互に支援する体制をとる。




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