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杉田庄一物語 その43(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」 十一月攻防

 十一月二日、前日に少佐になったばかりの小福田を指揮官に九機で増援輸送部隊の護衛任務に出撃するが、悪天候で引き返している。この時期の天候は飛行を困難にしていた。

 十一月三日、この日も早朝三時五十分から川真田中尉を指揮官とする九機が護衛任務に出撃したが、途中で遭難事故が起き、第一小隊は杉田のみが帰還した。第三小隊長だった島川正明は、このときの顛末を「島川正明空戦記録」(島川正明、光人社)に、次のように記している。

「十一月三日、明治節(現、文化の日)である。内地にあれば、ささやかなご馳走をいただき、朝から外出がゆるされるのだが、ここ第一線ではそうはいかない。今日もまたきびしい任務飛行、ガダルカナル島輸送部隊の上空哨戒である。
 第一小隊川真田勝敏中尉、竹田彌飛長、杉田庄一飛長
 第二小隊 岡崎正喜上飛曹、丸山武雄二飛曹、加藤好一郎飛長
 第三小隊 島川正明飛長、杉山英一二飛曹(甲六)、小林友一飛長
 飛長である小隊長の私に対し二番機は下士官である。戦闘機の世界は実力の世界であり、階級ではない。艦に重点をおいた保守的帝国海軍の古くさい体質は、パイロットの養成、用兵面に立ち遅れを生じ、階級と実力がマッチせず、しばしばこのような矛盾が生じたのである。
 (中略)
 さて、午前三時五十分、闇の中の出撃である。基地はもちろん、進行方向の天候もきわめて悪い。雲間を縫って飛行すること約一時間三十分、イザベル島北東部に達し、夜は完全に明けたが気象条件はますます悪化し、平常なら基地出発時に当然、取りやめるべき状態にあった。
 だが、人員と重要物資を積んだ大型船団であり、大きな犠牲をはらおうとも、とにかく護衛しなければとの意気込みをもって、発進したのである。
 しかし、視界矮小のため、ついに引き返す結果となった。往時はなんとか飛行できた状態は、極度に悪化し、中隊は雲中に突入してしまった。
 この時点から、各小隊は分離し、個々に基地に向かった。私は列機をまとめ、ときどき後方に目を配り、はげましあいながら、あるいは雲上に、そしてまた雲下にと必死の思いでようやく基地に辿りついた。列機は私を信じよくついて来てくれた。
 だが、この日、玉井を卑怯者よばわりした川真田中尉と、二番機の竹田飛長が帰らぬ人となった。いますぐ重要任務に耐え得る数少ないパイロットを、一気に二名も失ったのである。これまた天候のなせる業であった。」

「島川正明空戦記録」(島川正明、光人社)

 三小隊の編隊で哨戒任務に向かうが、視界が悪く護衛に向かう途中で引き返さざるを得なくなる。分隊ごとにバラバラになって雲中飛行を行い基地に戻ることになるが、第一小隊が遭難してしまう。一番機と二番機が雲中で衝突し、墜落したことが予想された。最前線に来て数日足らず、経験が一番未熟なはずの三番機杉田だけが単独で戻ってくる。洋上での戦闘機による単独飛行はベテランでも難しく、六空でもここ数日で事故が続いていた。ちなみに昭和十七年末までの二〇四空搭乗員の戦死者は、空戦による者十名に対し、空戦以外の自然災害や不時着水で死亡した者十六名になっている。

 ところで、島川のこの文の中には二つのトゲがある。一つ目のトゲは、「飛長である小隊長の私に対し二番機は下士官である」という表現である。十一月一日をもって下士官兵の階級制度が変更したことは、前述した。島川はすでに前線での経験が一年あるにもかかわらず、操練出身者ということで丙種予科練相当に置き換えられ「飛長」(飛行兵長)となった。「飛長」は兵としては最上位ではあるが、下士官ではない。杉田も操練→丙種で、前線に出たばかりなのに「飛長」となっている。しかも、一日だけ「一飛」(一等飛行兵)を命ぜられ、翌日には「飛長」(飛行兵長)に昇進したのだ。兵制度改革のためである。

 しかし、それ以上の問題は「甲種」との格差の問題である。前に少し触れたが、前年から海軍は飛行下士官を速成するために予科練制度を、「甲種予科練」「乙種予科練」「丙種予科練」の三つにわけた。「甲種」は中学校を卒業していることが条件となり下士官への任官が早かった。「乙種」はこれまでの予科練制度と同じで高等小学校卒が条件である。「丙種」は、水兵など他種から転科して飛行兵になる「操練(操縦練習生)」制度出身者をいい、一番古くから歴史がある制度だった。「丙種」と改称されたが元「操練出身者」はほんとうに操縦がうまかったという証言がさまざまに書かれている。

 島川は前述のようにベテランであるにもかかわらず操練出身者なので「飛長」、つまり飛行兵の長である。二番機である杉山二飛曹にはあえて(甲六)と書かれており、まだ前線に出たばかりの甲種予科練六期生ということがわかる。「二飛曹」は二等飛行兵曹である。二等とはいえ、曹つまり下士官なのだ。同じく予科練生出身という制度になったにもかかわらず、一番機小隊長の島川より、二番機の杉山二飛曹の方が階級は上になってしまったのだ。

 都合を合わせたようなこの予科練制度改革は、各予科練間に大きな軋轢を生じさせたのだ。
 もう一つの「トゲ」は、川真田中尉への「玉井を卑怯者よばわりした」という表現である。名前の出た玉井勘搭乗員は、ミッドウェイ海戦をともにした島川の戦友で、川真田中尉から「貴様は卑怯だ」と理不尽なハッパを喰った直後に悪天候の中を発進し行方不明になっていた。「卑怯」という言葉にある不名誉な罵りと悪天候の中の発進ということに島川はひっかかっていた。ラバウル進出当初から隊の中でくすぶっている下士官搭乗員へのいやな空気感が島川の表現からうかがえる。

 この時期、この地域では雨季にはいっていて厚い雲におおわれることが多かった。電子機器などなかった当時の搭乗員は、この悪天候の中で遭難することが多かった。ガダルカナル島上空での戦闘でたおれるよりも悪天候のために遭難する者の方が多かったという証言もある。

 十一月四日、空母「飛鷹」戦闘機隊が藤田恰与蔵大尉指揮のもと応援のためにブイン基地に着いた。着艦技術をもっている空母戦闘機隊にもかかわらず、狭くて整地されていないブイン飛行場に降りる際に多くの零戦が壊れてしまう。

<引用・参考>


 

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