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杉田庄一ノート39:昭和18年4月「い号作戦」と204空

 い号作戦というのは、ガダルカナル島からの撤収とそれに伴いニューギニア島東北部に作戦重点を転換するため航空戦力を総結集して空襲を行なった作戦である。

 ミッドウェー海戦が事実上敗北におわったため、次の手としてガダルカナルを押さえて挽回しようと思ったのに、この戦いでもアメリカの粘り強い戦いで押し返され、苦しまぎれに次の次の手として打った作戦といえよう。

 南太平洋方面作戦陸海軍中央協定により陸軍と海軍との協同作戦で実施することになったのが特筆することだった。仲の悪い陸軍と海軍が手を合わせて作戦をすること自体がありえないことであり、それくらい切羽詰まっていたともいえる。

 具体的には昭和18年4月7日から15日にかけて日本海軍の南東方面艦隊(第十一航空艦隊、基地航空部隊)と第三艦隊(機動部隊)所属の艦載機により、ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空母部隊と基地航空隊あわせて約350機をもって空襲を行った。

 その規模は、真珠湾攻撃と同じくらいであるが、搭乗員の練度や作戦準備などは比べるべくもない。また、機数は揃えたものの、連日前線で戦っている機体をかき集めて用意した状態で、万全な態勢とはいかなかった。

 実際にはラバウルの南東方面艦隊と第八方面軍の関係は険悪で相互に信頼をしておらず、陸海軍航空兵力の統一指揮も研究だけに終わり、結局はばらばらなままの戦いになった。連合艦隊司令長官の山本五十六と第八方面軍司令官の今村均は個人的には深い信頼関係で結ばれており、今村がラバウルの山本を訪問して懇談までしているのだが大きな隗を崩すことはできなかった。

 い号作戦についての戦果報告は膨れ上がって伝わり日本軍の大勝利と司令部に報告された。しかし、未確認報告が多く実際にはもっと少ないものだった。アメリカ軍のニミッツ元帥の言葉でアメリカ側の本当の損害がわかる。

 「彼(山本五十六)は戦争中もっとも強力な日本航空部隊を編成、まず最初に、アイアンボトム水道における船舶を、次いで、東部ニューギニアの目標に攻撃を加えた。この結果はけっして小さくなかった。駆逐艦1隻、コルベット艦1隻、給油艦1隻、輸送船2隻を撃沈し、25機の連合軍飛行機を破壊した。しかし、日本は40機の犠牲を出し、空母の第一線搭乗員の大きな損失は、日本の空母部隊の戦力をこれまで以上に大きく低下させたのである。」

 そして 、この作戦で何よりも大きな日本軍側の損失は、山本五十六が戦死したことである。い号作戦の戦果を信じ、前線視察に行く途中でアメリカ軍戦闘機P-38の待ち伏せに合い、撃墜されたのだ(海軍甲事件)。杉田は、山本の護衛機だった。海軍甲事件については、『杉田庄一ノート4〜11』に詳細を書いた。

 さて、い号作戦そのものに204空も参加した。204空の戦闘行動調書に4月7日のルッセル、ガダルカナル島上空制圧作戦(X作戦)、4月12日のポートモレスビー攻撃の陸攻隊直掩(Y作戦)、4月14日のラビ飛行場攻撃陸攻隊直掩(Y1作戦)に参加したことが書かれている。

 杉田は、4月14日の攻撃に参加し撃墜1機と記されている(戦闘行動調書ではミルネ湾敵艦船攻撃と記録)。この日の出動は、い号作戦の最後の仕上げとして計画され、零戦127機、陸攻37機、艦爆23機でニューギニアのミルネ湾に停泊する敵艦船およびラビ飛行場を攻撃するものであった。撃墜した機種は特定されておらずfcとしか記載されてない。fighter of carrier (艦上戦闘機)の略かと思う。

 艦上戦闘機としてこの頃ニューギニア方面に出現していたアメリカ海軍機はグラマンF4Fであるが、ボートF4Uが加わるようになってきた。また、アメリカ陸軍の新鋭機としてロッキードP38が戦場に姿をあらわすようになった。

 この頃、杉田と同じくラバウル基地にいた253空の本田稔氏が初めてP38に遭遇した時の記録が『本田稔空戦記』(岡野充俊、光人社)に記載されている。同様の文書が『私はラバウルの撃墜王だった』(本田稔ほか、光人社)にも掲載されているが、こちらの方がオリジナルかと思う。以下は、『本田稔空戦記』からの抜粋。

 「昭和十八年二月八日、私は一個小隊三機で、ニューギニア方面の索敵に出た。ちょうどガスマタを過ぎてしばらくしたころ、三番機がエンジン不調を訴えてきたので、引き返すように指示した。この時の三番機はあいにく、まだ練度の少ない搭乗員であったため、単機で帰すにはいささか不安があったので、二番機にもともに帰るよう命令した。
 そのあと私は単機で、モレスビーへ向けて飛行をつづけていた。と、右前方に八機の軽爆(軽爆撃機)らしきものを発見した。このころは連日の出撃でつかれてはいたが、その反面、技量もあがっていたので、腕に自信はあった。
 <シメ夕! 今日は一人でぞんぶんにあばれてやるぞ。はしから順番に喰ってやろう>と最左翼の一機にねらいをつけた。さいわい護衛戦闘機機が1機もいないので容易に接敵することができた。 近づいてみると、いままでに見たこともない、 ぶかっこうな飛行機である。胴休がニつもあって、真ん中がすっぽり抜けた感じである。
 <ありゃ、妙な飛行機だな。これじゃ弾が抜けてしまうがナ>とひとりごとをいいながら、敵の後部機銃の射界を避けるため敵機の下へもぐリ込み、一気に突き上げて左端の一機を射とめた。
 敵はまさか零戦が単機で攻撃をしかけてくるとは思わなかったのか、気づかなかったのか、これはいとも簡単に墜ちてしまった。
 私は余勢をかって、もうー機喰ってやろうと、一旦撤退してから、次の目標機を追跡しようとしたそのとたん、ふと後方を見たら、僚機の仇とばかリ敵のー機が私を迫いかけてくるではないか。
 <何を馬鹿め、軽爆のくせに、こともあろうに零戦を追跡し攻撃をかけてくるとは何事だ。命知らずめが!>と嘲笑する反面、<敵ながら天晴れな奴じゃわい>と、同じ飛行機乗りとして その攻撃精神に感心したのである。
 私は反転してそれを振リ切ると、この生意気な軽爆を逆に血祭リにあげてやろうといろいろ操作をやってみたが相手は執拗に喰い下がってなかなか離れない。一瞬、私は狐につままれたような錯覚におちいった。
 <爆撃機が戦闘機を追いかけてくる。しかもかなりのスピードであり、現に俺は迫われているこれはどうしたことだ。こんな馬鹿なはずがない)>と、まるで悪夢でも見ている気持ちだった。
 もうこれで、私の一步負けである。しかも相手は七機。上から下から入れ代わり立ち代わり攻撃をかけてくる。なかでも上から攻撃をかけてくる時など、とても爆撃機のやる技ではない。私は今さらながらあわてふためいた。寄ってたかって痛めつけられ、今や形勢まさに逆転、逃げるのに精いっぱいであった。
 とにかく、私はその足でとって返して、ガスマタに降り、燃料を補給するや急遽、ラバウルへと帰ってのである。
 そして、飛行隊長にこの旨を報告すると、
「それは敵の新鋭機だ。まだ資料は来ていないが、だいたいどんなかっこうだ?描いてみろ」
 ということで、私はたったいま交戦したばかりの敵機のイメージをそのまま描いてみた。それでも爆撃機と思い込んでいたので、(たしかこの辺に爆弾倉があったようだが……)と、まったくぶかっこうな飛行機を描いて報告した。これは数日後、正確確なデータが入り、アメリカのロッキードP38新銳双胴戦關機であることがわかった。
 初めから戦關機とわかっておれば、あの場合、一対八の空戦などしかけなかったであろう。いままでに見たこともない形だけに、どんな性能をもつのかわからないという警戒をしていたため、さいわいにして撃墜されずにすんだのであった。」

 ロッキードP38は双胴双発という異形をしており、一見計爆撃機と見間違えてしまう。アメリカ陸軍がベルP39エアラコブラがその高高度性能を生かすことなく中高度での零戦との空戦で餌食になっていたため、このP38に期待がかけられていた。ソロモン海域に登場したばかりの頃は、やはりその高高度性能と高速をいかすことなく零戦と格闘戦を行なったためP39同様に餌食になることが多かった。当時は容易に墜とせるからということで「ペロハチ」と不名誉な呼び方をされた。しかし、高速を生かした編隊による一撃離脱の空戦をとりいれることによって次第に零戦には手強い相手となっていく。

 杉田がP38と空戦を行ったのは2月14日の空戦である。この時は、B24の護衛としてP38とF4Uがついてきている。空戦記録ではこの日にP38を4機、F4Uを2機、B24爆撃機を2機撃墜している。(宮野中隊13機による協同撃墜)。

 山本五十六が襲撃された海軍甲事件の時も護衛機がP38だった。航続距離が長いP38でもブイン上空まで来るのは、空戦時間も含めるとギリギリであった。というか、陸上基地からは航続距離が短い海軍機ではとてもこのミッションを行えず、P38でしかなし得なかったのだ。4月18日の海軍甲事件で、杉田はP38を2機撃墜と記録されているが、アメリカ側の記録では1機しか撃墜されていない。また、同じく飛長として護衛に参加していた柳谷謙治さんも1機撃墜を報告している。しぶといアメリカ軍機は弾が命中して炎を吹いていても消火装置がきいて、墜落までいかないタフさがある。撃墜確認までできていなかったということだと思われる。

 い号作戦は、司令部に集められた報告を見るかぎり、作戦成功である。しかし、前述したように、報告はいつのまにか膨れ上がっていた。山本五十六も報告を受けても懐疑的であったといわれている。ともあれ、作戦終了したので前線の部隊にねぎらいの言葉をかけるため、4月18日、山本司令長官は視察に出るが、暗号が解読されていて襲撃に会う。い号作戦の最大の失敗がこの山本戦死であった。

 このあとの杉田の動きについては、杉田庄一に関するノート4〜11に記した「海軍甲事件」へと続く。



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