「流される」ではなく、「流れるように」
5年後の僕の進路について聞かれました。
「わかりません」と正直に答えます。
過去を振り返ると、そう言わざるをえません。
たとえば5年前、今の自分を想像できたでしょうか。
「できなかった」と断言できます。
夜中に起きて、母のおむつを交換する日常なんて考えたこともありません。
コロナの世の中なんて想像さえつかず、
コロナになって旅に行けなくなっていなければ、農業に足を踏み入れることもなかったでしょう。
最たるものは町議会議員。
人生の中で自分の選択肢に一度も入ったことがありませんでした。
それでも、おかげさまで充実した楽しい日々を送らせてもらっています。
「いったい、どう生きてきたんだ?」
と問われ、
「流れるように」
と咄嗟に言って笑われたことがあったなぁ。
でも、それが実感です。
ただ、「流れる」のであって、「流される」ではないかなぁ。
自分ではどうにもならない「流れ」というのがあります。
コロナや災害のように。
その「流れ」の中で、自分の意思で流れていることを意識していれば、
流れている中で、一緒に流れているものがぶつかってくることもあります。
僕にとっては、それが介護だったり、農業だったり、町議会議員だったりしただけ。
もちろん、ぶつかってきても見過ごすことだってできます。
自分が流れているうちに、
「面白そうな物が流れてきたぞ」
と多少、離れていても自分から泳いでいって、つかんだっていい。
僕にとってはホワイトマンの活動や本の執筆がそれにあたるかもしれません。
こうやって、人に質問されると頭が整理されていっていいですね。
というわけで、この後、どう流れていくかわかりません。
「不安な将来だねぇ」
と言われたけれど、
「見えないから、おもしろいんじゃないんですかぁ」
と笑いました
まぁ、今の時点でわかることは、5年後は、僕が60歳になっているということくらいでしょうか。
バリ島で見つけた案山子(写真)のように、どこかの島で米や花を育てているかもしれません。
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