KYに想う
「KY」を「空気を読めない」で使用していたのは、いつの頃でしょうか。
今は「危険予知」としても使用するらしい。
僕は、「空気を読みすぎる」人としても叱られたこともあれば、
「空気を読めない」人と罵られることもありました。
振り返れば、
「どっちでもいい」と思うことでは、主張することなく、空気を読んでいる、もしくは何も考えてないように見え、
「ここだけは譲れない」部分は主張して、「空気が読めない」と批判されていることが多いように感じます。
かといって、主張するにしても「真偽」に照らし合わせているかと問われると、そこまで人間ができていないので自信はありません。
「善悪」に引っ張られることはあるけれど、それは、立場によって、がらりと変わるので、これまた、その判断が正しいのかどうかもわかりません。
映画「愛にイナズマ」(石井裕也監督)を拝見しながらKYについて考え、
主人公の映画監督「折村花子」に、上京した直後に出会った助監督を照らし合わせました。
僕が丁稚奉公のように映画事務所で制作見習いとして働いていた頃です。
その事務所で僕と同じ見習いのように助監督として働いていた女性がいました。
名前が想い出せません(ごめんなさい)。
しかし、小柄で童顔、群馬出身の女性だったことだけは憶えています。
撮影現場で彼女は走り回っていました。
「空気が読めねぇやつだなぁ」
と罵倒されながら。
彼女の場合、撮影現場なので、なおさらだったのかもしれませんが、
制作の僕から見たら、空気を読むどころか、読み過ぎて苦しくなっているようにも見えました。
ただ、どうしても譲れない部分を主張したことで、先輩方から反感をかってしまったこともあったように思います。
まだまだ男性社会の映画の撮影現場だったこともあったのかもしれません。
一度だけ、彼女のマンションに僕とパートナーと飲みに行って、
映画の話を語り合った記憶もあります。
僕は、ある現場で倒れて入院してから、映画製作から離れてしまい、
当時は携帯電話もないので、連絡先を交換することもなく、それと供に、彼女とも疎遠になってしまいました。
元気なのかなぁ。
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