まつゆう*さんのこと。

去年の年末に、まつゆう*さんからツイッターのダイレクトメールをいただいた。そこには、インスタグラムをやめます、そしてnoteをはじめます、というお知らせが書かれていた。
そして昨日、もう一通DMがきた。
noteで新しいWebマガジンをスタートした、というお知らせだった。

『「m's mag.」、スタート!』

まつゆう*さんとの出会いは、2010年の秋だった。
当時私はツイッターで毎日の占いを書き始めたころで、まつゆう*さんはすでにバリバリの国際的なアルファツイッタラー(って言うのかな?)であった。
彼女がツイッター越しに私を見つけてくれて、なんと、ラジオ出演に誘って下さったのである。今では毎年あちこちでラジオに出させていただいているが、実はまつゆう*さんに誘っていただいたこの時が、生まれて初めてのラジオだったのだ。

それ以降、このラジオでご一緒した野本かりあさんとは個人的に飲んだことがあるのだが、まつゆう*さんとお会いすることはなかった。でも、ネットというのは不思議な場所で、まつゆう*さんの活躍は時々チラ見していた。実は彼女のプロデュースしたでっかいトートバッグを買ったりした(爆)。
まつゆう*さんも私の占いをチラ見してくださっていたようだった。
一度しか会ったことがない人でも、ずっと「その人が生きている気配」を感じることができるのが、ネットのいいところである(そして、悪いところでもある)。

「拡散する」「インフルエンサー」という言葉がはやって久しい。
現在では、マスメディアと同等か、場合によってはそれ以上の「ひろめる」力をもつようになったインターネットだが、彼女はその黎明期から戦ってきた人だ。

私はといえば、どちらかと言えば「こそこそじわじわやってきた」という自覚があるのだが、インターネットというもの、Webというものの中で生きてきた時代感覚は、共有している気がする。彼女より私のほうが4つほど上なので、同世代と言ったら失礼かもしれないが、接触がないのに共闘感的なものを勝手に感じるのである。

私も去年からnoteを始めたところだったので、まつゆう*さんの選択を聞いて、改めて、共有してきた時代を感じた。
もちろん、まつゆう*さんにとっては、純粋に自分固有の創造性に関する決断だったのかもしれないが、この20年のめくるめくメディアの変遷を生きてきた者同士として、不思議に似た選択をしている気がした。

twitterも、インスタグラムも、大きな広やかな「場」だ。みんなが行き来する、オープンな世界だ。ゆえに、新しい情報に触れることが容易で、知らない世界に簡単にアクセスできる。で、ツイッター越しに恐ろしくたくさんの本を買ったりしている(爆)。

しかしそうしたオープンさの一方で、「世界観を守る壁」みたいなものを必要とする気持ちも湧いてくる。
誰もが通行できるオープンな場所では、たとえばライブハウスでバンドが奏でる世界観のようなものを「守る」ことができない。きりとられたり、別の枠組みにはめ込まれて揶揄されたりすることも珍しくない。
ディズニーランドの中と外では別の時間が流れている、だからこそ、みんなディズニーランドに行きたくなる。もし境界線が壊れてしまって、べつの世界観が入り込んできてしまったら、ディズニーランドはその魅力を失ってしまうだろう。

ある世界観を創造するには、ディズニーランドの国境線のごときものが必要なのだ。

外界に対して、なんらかのかたちで、「閉じて」いなければならないのだ。

先日、しいたけさんとお話をしたときに、noteにはそういう境界線があるかも、という話をしいたけさんがされていて、確かにな、と思っていたのである。では、はてなブログとどう違うのだろう……ということにもなるが、根本的には違わないのかもしれない。いや、でも、何かが違う気もする。

noteは「自分が書くもの」に関するクローズド感が強い。読み手に対して閉じているということではなく、外界に対して閉じているのである。読み手を集めて開催している小さなイベント会場、みたいな感じがある。私が書いている有料マガジンの「マルジナリア・2」は特にそうだが、無料部分でも何となく、ちゃんとディズニーランドの国境的なものが「あってくれている」感じがする。

noteというサービスとして、アクセスを増やしたいのは当然だろうが、そこが焦点にはなっていないからかもしれない。広告収入によって立つコンテンツビジネスではなく、あくまでコンテンツ自体で収益化していこうという大志がnoteにはある。それは私が20年前からずっとあこがれてきたことである。書籍では当たり前のことが、Webではそうではない。そこを乗り越えたかった。noteはその希望を共有できる場所なのだ。


私はブログや週報、このnoteも、下書きをしない。そのサービスが提供する入力インタフェースに直接書き入れてしまう。どんな長いものでもそうである。年報だけはエディタに書いてから貼り付けていて、それは例外なのだが、ほかのものはガンガン、ブラウザ越しに書き込んでしまう。

ゆえに、そのサービスが提供している入力インタフェースのありかた、ブラウザ上のエディタのありかたが、書くものの内容や長さに、(自分で思う以上に)強い影響を及ぼす。たとえば、すでにサービスが終了してしまったが、以前の私ははてなダイアリーの入力インタフェースが本当に好きだった。

noteのエディタにも、独特の雰囲気がある。
公開時だけでなく、書いている最中から、外界に対して一つの境界線を引いて、閉じた世界の中で作業をしている、という感覚を得られる。
この「雰囲気」の理由は、たぶんサイドメニューみたいなものが少ないからかもしれないし、入力画面と表示画面の印象がほとんど変わらないからかもしれないし、あるいは、ほかにもたくさん理由があるんだろうと思う。一般に、UIの使いやすさや印象には、たくさんのヒミツ(というか、工夫)が隠されている。優れた工夫ほど、ユーザの意識にのぼりにくい。

私はあまり、Webサービス自体についてあれこれ書くことはない。だが、まつゆう*さんが昨日、新しいWebマガジンを創刊されたというお知らせを受けて、このネットでの活動というものについて、ある種の歴史みたいなものを共有しながら分かり合える仲間がいるんだなあ、みたいな感慨を勝手に、感じたのである。で、ちょっと感じたことを書いてみた。

すでにあるアカウントを削除したり、変更したり、場を変えたり、ということは、決して簡単なことではない。そこで距離ができてしまうユーザもたくさん出てくる。それでも枠組みを変えたい、というのは、単にトレンドを追うようなこととは、まったく別のことだ。自分というものもどんどん変わっていく。「今の自分」が出したいもの、作れるものは、どういう枠組みで打ち出すのがベストなのか、という問いは常についてまわる。
「今のままでいいのか?」という、終わらない問いだ。

いいなと思うもの、かわいいなと思うもの、好きなもの。まつゆう*さんはそういうものを探して、世界中を旅していく。自分の創造性で美しい世界を表現し、それを人に伝えてゆく。

私は、どちらかといえば、新しく好きになれるものをさがす、というのが苦手であり、素敵なものを見出すセンスもない。まつゆう*さんとは全く別の世界に生きている。彼女と比べると、自分は何十年も着続けているどてら姿で、古本を積んだ押し入れの中でごそごそしているような感じがする。

そんな、まったくべつの世界を生きているのに、不思議と同じような時期に同じようなメディアで「自分の打ち出すもの」を改めて考え直している、という現象が起こっているのだ。
心強いような、うれしいような気持ちに、なってしまうのである。


1/23追記

お返事をいただいた!うれしい!!!(感涙


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