「涙の度数」のはなし。

2020/6/22-6/28の週報で「全体の空模様」を書いておりましたら、やたら長くなったので、この部分だけ切り抜きました。ホロスコープ上で「涙の度数」という言い方があります。これはいったい、なんなのか。それをちょっと考えてみました。

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ホロスコープ360度の中で、特別な度数として「涙の度数」と呼ばれるものがあります。星座の29度(29度から30度、つまり次の星座の0度までのところ)をそう呼ぶようです。特に水の星座の29度、または蠍座の29度を「涙の度数」とする、という説もあったように思います(たとえば、松村潔さんは、12星座の全ての29度が涙の度数であるとしつつ「典型的な涙の度数となるのは、蠍座だけです」と書かれています)。

星の星座から星座への移動は、世界を旅するような動きです。時折の逆行はあるものの、基本的に星々(占星術で使う、時計の針となる星。太陽、月、惑星、冥王星等)は各星座を、0度から30度(次の星座の0度)にむかって進んでいきます。0度は「国境」です。

星座に入ってすぐの場所、つまり0度から1度付近では、とてもフレッシュな状態で、その星座の最もプリミティブなエネルギーに半ば支配され、振り回される、といった考え方もあります。そのあと、星座の中ほどを進むにつれ、星はその星座の世界観を学び、馴染み、だんだんこなれていきます。そして、もっともその星座の世界観を熟成した形で体得し、次の星座に国境を越えて飛び移る直前が、カスプ直前の29度辺り、ということになります。

星座と星座の境目は、グラデーション的に意味合いが混ざっている、とイメージする向きもあるようです。でも、私は、カスプは非常にハッキリした境目で、ある意味「飛躍の場所」と捉えています。隣り合う星座同士は、非常に対照的な世界だからです。星座から星座に星が移動することを「イングレス」と呼び、その動きはとてもビビッドな、ピンポイントな動きとして解釈される傾向があります。その代表が「ボイド・オブ・コース」という考え方です。星が星座から星座を移動する瞬間で、ボイドタイムは終了するのです。

一つの世界のことを全て経験し終わって、新たな世界へと移動する、という動きは、たとえば「卒業」「旅立ち」といったイメージになります。「涙」はそういう「涙」と捉えることもできると思います。であればそれは、うちひしがれるような涙ではなく、胸がいっぱいに膨らむような、希望の涙です。単に「悲しいことが起こる」というような浅薄なものではないと思いますし、実際、占いの場でも、そういう場所だなと感じてきました。

特に、魚座から牡羊座のカスプ(境目)は春分点、冬が完全に終わってまっさらな春が始まるよ!という、言わば「死から生への飛躍」みたいな場所です。とすると、魚座29度は、たとえば仏教的な輪廻転生のイメージでいくと、「前世から来世へ、全てを捨てて転生するとして、そこでただ一つ、持っていくものを選べるとしたら、どうする?何を持っていく?」みたいなことを聴かれる関門的な場所だな、と思っているのです。個人的に。

これは勿論スピリチュアル的な意味合いのことではなくて、私は、前世や来世というものがあるのかどうかわからないですし、正直かなり懐疑的ではあります。でも、世の中の神話や伝説、宗教的な考え方の中には、「あの世」とか「次の生」みたいな考え方はとてもたくさんあります。そういう世界観を借りてきて考えるならば、魚座29度は「人間が仮に、全部を捨てることができたとして、その中でひとつだけ『私』の核のようなものをもっていくとしたら、それはどんなものかな?」みたいな問いを含んでいる感じがするのです。

卒業式に大切に「もってゆくもの」は、古い教科書だけではありません。友達と交わしたメッセージ、昔はやった「制服の第二ボタン」など、多くの卒業生が「人への思い」をなんとかして「もっていこう」とします。本当に大事なもののために流した涙こそは「たったひとつ、持っていきたいもの」になり得るのではないでしょうか。それは、「人生の意義」となり得るものです。魚座29度が「涙の度数」だとして、それは「ちょっと転んですりむいて痛かった時の涙」のような、軽い涙ではないと思うのです。人生の中でどうしても忘れられない、一番大切な、失いたくない涙があったら、それこそが「涙の度数」の「涙」であろうと思います。

「涙の度数」のことを考えるとき、『星の王子さま』の「本当に不思議なところですね、涙の国というところは!」というくだりを思い出します。誰の心の中にもある涙の国、そこには、容易に他人が入ることはできません。でも、それでも、誰の心の中にもあるのです。

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人生には、少しでも早く逃れたい悲しみもあれば、絶対に手放したくない悲しみもあります。愛や希望や、美しい気持ちが明るければ明るいほど、悲しみは、深くなります。悲しみは時に、宝物のようになり、生きる意味にもなります。「聖なるもの」には、たぶん、悲しみが含まれています。悲しみは「悪いもの」か。それは、その人がその悲しみをどう生きるか、ということに、かかっているのかもしれません。