「職業意識」のありか。(3/3)

ここまで書いてきて、やっぱりタイトルを間違ったなと思ったのだが、仕方がないのでこのままいく(あとで変えるかもしれない)。

とにかく、今回のアイデアを書き切ってしまうことにする。

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私たちは、さまざまなものを「分けて」考える。そのほうが考えやすいからだ。しかし「分ける」のは、あくまで便宜的なことで、本当にバラバラに存在するわけではない。

 中井久夫という精神科医は、心と体を分けておくのは、それが便利だからという理由にしかすぎないと言っていた。
 心と体を分けておくと便利なのだ。そうすると、コントロールしやすくなるからだ。だって、そうじゃないか。指にイボができたとき、これを「心がけが悪い」とか、「神の祟りだ」とか言い出すとややこしくなるから、液体窒素で焼いて処理してしまった方がいい。(『居るのはつらいよ』東畑開人・著 医学書院)

しかし、本来は体と心はそれほどクッキリ分かれているわけではない。不安になると食欲がなくなったり、逆にどか食いしたくなったりする。先日の「一人でしゃべるラジオ」の仕事の時は、手が震え、喉が渇き、お水をもらって落ち着いた。心の動揺と体の変調は一体なのである。

「<こころ>と<からだ>ということばを両方ともやめて、なんでもよいが「こらだ」で両方をあらわすとおかしなことになる。(『看護のための精神医学 第二版』中井久夫・山口尚彦)」
 調子が悪くなって、「おかしな」状態になるとき、心と体の境界線は焼け落ちる。そのとき、心と体は「こらだ」になってしまう。

東畑氏は、「こらだ」の例として、恋に落ちたときのことを挙げている。特定の人物を前にすると心臓が破裂するほどバクバクし、挙動不審になるのは、「体の病気」ではない。

「こらだ」にせず、心と体に分けておくのは、それをコントロールしやすくするためである。「こらだ」は、コントロール不能なのだ。

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マルジナリア・2

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