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生きる人々

散歩

朝、散歩に出ると、昇り始める太陽の姿、その光に照らされる社の森の陰影、路地の辻にあるお地蔵さん、それに手を合わせるおばあさんの姿。八百屋での開店の準備に忙しいその家人達の営みの様、一日の始まりが伝わってくる、家々からの生活の音、等々。これらは、毎朝の日常(散歩の時間)に実在する風景ですが、そこから何かしら美しさを感じませんか。姿、様は違えど、かつての体験の中に、同様な美を感じた事を思い出しませんか。  美は、どうやら、身近なものに、祈りを見出す行為の様に思えます。

美は、真善美を表す哲学、思想の一重要分野ですが、善と真とも交わり、重なり合います。善と真からのアプローチにより、美を表すアプローチが求められます。これを山人、野人的に、特に善から美を表したい
と思います。

善                                 人は、自己を持つ以上、自分を持つ以上、エゴやケガレな存在であり、それを受け入れることとは、どうせエゴ、ケガレなのだから○○することはOK、良いんだとすることでも、エゴ、ケガレの無い美しい世界のみを求める(自らの美、美意識を絶対視するようとなった場合、自らの美に執着する余り、偽善、美が醜ともなる自らの矛盾を内面に抱えることになりかねませんが)ことでも無く、自分同様エゴ、ケガレな他者を否定、攻撃しないこと、イコール他者によって成り立っている社会や共同体である以上、他に対してではなく、自分の身近な所から、自らで祈りを感じる物、事、時を見出す。そこに思いを寄せる、想像することなのでは? と山人、野人は善を民衆の善と解釈しているようです。

美                                 美しい世界、イコール、エゴ、ケガレの無い世界とする観念は、美を特別なもの、高尚なものとする先入観を人々の中に生み出し、世俗(エゴ、ケガレの世)から離れた、あの世的スタンスから美を求めるようになる。
(貴族的、及び貴族的になっていく武家等)これは受け入れではなく避難であって、民衆は逃げてるだけでは生きられない。逃げずに美を見出す。この世、つまり身近なものに祈りの美を見出す民衆の現実的意識(美意識)は、エゴ、ケガレを受け入れる民衆の善の意識とが交わり、重なり合う瞬間に生まれる。それは美と善が重なる瞬間を指す。民衆の善の意識と祈りたいと思える意識が、村や町から人々が生きている様を実感出来た時、美が発生する。そこに人々は、自らの暮らしや人生を村や町に重ね合わせることが出来るようになる。そして村や町に美意識を見出す。と山人、野人は美の発生のメカニズムを民衆の善と絡めて解釈しているようです。散歩はその例のようです。

祈りと等価                             この世に(身近に)、美を見出す(祈りを見出す)ことは、身近に(この世に)祈りを見出す(美を見出す)ことと等価の関係にありますが、私達の暮らしは等価な関係を持つもの各々で成り立っている、と自覚する。
すると、美に敏感になり、美の力を知るようになると考えます。
暮らしの一例(自らの追体験を例としますが)として、仕事(街づくり)がもたらすであろう結果に、人々の立場に立ち思いを寄せる、想像すると、祈りのような意識が芽生えます。そこからは、追及すべく自らの生業の美の意識が生まれることでしょう。釣りや作庭、農を行う行為の中から、様々な祈り感に気付き、行為に祈り感を持つようになります。そこからは、民芸(既述参照)つまり、ものの持つ美や、暮らすことの美の意識が生まれることでしょう。町や村から、人々の営みや営みの記憶に思いを寄せる、想像すると、それらを祈りたいとする意識が芽生えます。そこからは、村町の持つ小宇宙、世界観への美の意識が生まれることでしょう。
小さな開発、暮らしの復権等への美の意識が生まれることでしょう。(既述参照)仕事をすることも、作庭、農をすることも、釣りをすることも、普段の暮らしをすることも、全て等価な関係とする意識が、民衆の美を見出し、それを自覚するようです。暮らしは等価な関係を持つもの各々で成り立っています。                              さて何を対象に美(真善)を求めますか?対象を改めて美(真善)から求めてみませんか?



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